内臓と内面

criticism
2010.07.22

なぜ内面が発生するのだろうか。

気になるのは視覚である。というのも、聴覚や嗅覚、触覚は、身体の内側も感覚しているが、視覚はそうではないからだ。たとえば心臓の音を聞き、内蔵の匂いを嗅ぎ、骨の位置を感覚することができる。しかし、眼球だけは完全に外を向いている。眼球への依存度が高い分、身体内部は不可視となる。こうして身体内部は内面(精神)化される、と考えてもよいかもしれない。

さらに考えを進めていくと、科学は見えない精神を肉として扱うことで、見えるようにするものだ。しかし芸術は、精神を精神のまま、見えるようにするものかもしれない。その点、細部にいろいろな意味を読み取らせようとするコンセプチュアルアートにはほとんど関心がない。美しい絵画に画家の美しい精神をみる、それだけのことではないのだろうか?

たとえば漱石の「心」は、心は見えないものだ、と主張している。要するに、漱石は、自分の心を隠しているわけである。こういう心のはたらきは確かにある。隠すという形で露にするわけだ。だが、こういう屈折した精神の外化を、わたしは好まない。ずいぶんひねくれた人だな、と思うだけだ。

しかし、こういう精神の主張は、精神を開放し、露にしようとするひとたちがはじめにいなければ存在できない。つまり、解剖しようとする自然主義者なしには、隠すべきだという漱石のような考え方はできないのである。

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