矢を作る

diary
2022.06.08

さて、『存在の歴史学』という矢を未来に放ったあと、手持ちの矢がなくなって、呆けている。また矢を作るところから始めなければならない。十年くらいしたら、また矢が撃てるだろうか。

このところ孤独になじみすぎて、言葉がうまく出てこないときがある。ここはそういう意味で、外の空気が吸えるところだからまだいい。昨日は高校生を相手に講義。なかなか楽しかったが、少年少女たちが朝から夕方まで講義を受けていると思うと、ちょっと敬服してしまう。もちろん、高校の教師にも同じように。

自分がいつもしている、考え考え、右往左往しながらの講義を、一日中やると思うと、気が遠くなる。いまの何倍も体力がいるだろうし、たとえ体力があっても、同じテンションを保てるとも思えない。つまり精神力が問われる。

『存在の歴史学』だが、方方で難しいといわれる。そうかもしれないが、自分のアイディアを書き手自身で「じつはこういうことなんです」と説明を強いられることも、なかなかの苦行である。書き手がその作品の意味の説明まで読者に求められる。そのとき、孤独はたやすく極限に達する。

個人的には、応仁の乱から明治維新に至る流れについて、たんに個別的な文化史として学んでいた井原西鶴や本居宣長を完全に政治史に融合させつつ、なおかつ近代に純文学が生まれねばならなかった必然性さえ組み込みながら、日本史家としてはじめて、万人が納得可能な物語を描いたと思っているのだが、そう思っているのは自分だけかもしれない。

ふと振り返ると、誰もいない。遠くに学界の灯がみえる。このところやや力が抜けているが、後ろを向いた自分がいけない。また身体のどこかから推進力をみつけて前を向かなければならない。孤独のなかでも明るくする術を、人文学者は知っているものだ。自分の取り柄はそこだったりする。

自分はいつも欲求不満であって、おそらく生まれた時からずっとこの世界に不満を覚えてきたのだろうが、そういう意味で、現状にまったく満足できていない。世界にも、自分にも。もっともっと前に行く。たぶん死ぬまでそういう生き方をする。

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