知の使用法

criticism
2022.06.01

自分は知性をためらうこと・思いとどまらせることに使用しない。一歩踏み出すために使用する。対話不能の恐ろしい狼がいるとしよう。自分なら、彼になお語りかけることに、知性を使用する。対話を思い止まらせるのは簡単だ。人間の不安を煽れば、それで済む。なんなら狼を殺してしまうことさえ、ためらうこと・思いとどまることに該当する。

一歩踏み出すこと、すなわち野蛮であること、それは自分には知的な営為で、そして愛すべきアナーキーだ。マスクはできるかぎりはずす。といっても、客にマスクをさせることが義務であるような労働者たちを苦しめたくはない。そのためだけにマスクをする。不安に埋没する民衆のことは気にかけない。

「民衆」の不安に寄り添い、不安を「代弁する」「知識人」、その胡散臭さ。そこにこそファシズムがある。かつてそう主張してきたのではなかったのか。現状、日本にはミクロファシズムが発生していると、自分は感じている。なにしろ、いま、日本人が恐れているのはウイルスではなく、日本人であり、しかもむき出しの「顔」である。「顔」こそ恐ろしいものであり、排除せねばならないわけだ。それこそがファシズムだと、日本のレヴィナシアンは言ってきた。しかしいまは、黙って、なにも言わない。

「ためらう」ことこそ知性だ、と心底思っている人を、自分は否定しない。そう言いたい人にはそう言わせておけばいい。しかし、「それに同意する人」とは関わりたくない。彼らがしているのは「ためらう」ことではなく、追従することである。たんに身動きできずに無作為でいる自分を肯定してもらって、喜んでついていっているだけでしかない。それどころか、もしかしたら「ためらわない」ことを知性から排除さえしているのである。

真の意味で進む知性はありうる。というか、ベルグソンは、知性の役割は《前》を教えることだとさえ言っていた。対話不能の狼に、なお、語りかける。それで殺されても、「ためらい」になずんで安全なところから「そらみたことか」と嘯く知性と一緒にされたくない。一歩踏み出すこと、それが自分にとっての知性の純粋な使用法なのだった。

HAVE YOUR SAY

_