空海

review
2003.05.22

京都国立博物館にて、「空海と高野山」展が開催されている。真言密教の開祖、空海の思想は、このような言い方が許されるなら、南都六宗などいわゆる顕教のエクリチュール中心主義に対して音声中心主義を基軸としている。こうした音声中心主義の最良の系譜は、天台宗の密教化(台密)や、あるいは天台宗から起った道元の曹洞宗など、鎌倉新仏教を通して密教が宗教としては次第に顕教へと回収され同一化してしまったことを思えば、のちに「東山殿の時代」と称される室町期の阿弥号をもった文人(能阿、芸阿、相阿、千阿(千利休で知られる千家の祖とされる)など)たちの文化や、あるいは安土桃山文化など、芸術的な側面にこそ色濃く残った、という見方もできるだろう。

たとえば、今回の展示の白眉である「聾瞽指帰」における若き日の自筆書巻を見てみよう。前半からすでにエクリチュールと呼ぶのを逡巡させるその雄渾な筆跡は、最後の数行において、まさに指数関数的にその複雑さを飛躍させるだろう。本場中国においては衰退し、消滅してしまった密教を日本に持ち帰り、根付かせ、さらには戦国期の動乱を彩る様々な文化の源流を準備したのが空海であったことについて、この書巻は逆説的にも説得的である。彼は、音声中心主義よりももっと音声中心主義的な、《原エクリチュール》(デリダ)を見出していると言っても過言ではない。空海という境界線上の知識人は、これまで多くの人間を思考に駆り立ててきたが、それは今後も変わることはないだろう。漢字よりも梵字や仮名を重視した三筆のひとり、空海こそが、日本の作者の一人であることを、わたしは少しも否定しない。その筆先がほとばしらせる飛沫は、はるか今日にまで及び、散種されているのである。

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