H.ハヤシはまだ廻っていた。六月のある夕立の日に廻りだしたのだから、もうかれこれ三ヶ月以上廻り続けていることになる。もうそろそろ止まってもいいような気がするのだが、そうもいかなかった。どう考えてみても、止まる理由がみつからなかったのである。一度、廻りだした以上、廻り始めたときになにかそうする理由があったように、当然、止まるのにも理由がいるはずだ。たしかに、身体はもうくたくたに疲れているし、廻りすぎて、身体がずいぶん磨り減っているようにも感じられる。だが、それは、止まることの理由にはまったくならないはずだ。それくらいのことは、自分にだってわかる。こうなったら、疲れていることすら感じられないくらいに疲れてしまえばいいと、彼は本気でそう思っていた。それに、廻りながらでも十分に睡眠は取れたし、なぜか毎日彼にパンを放り投げてくれる長い口ひげをたくわえたK老人がいたから、お腹がすいて死ぬこともない。とはいっても、堤防の小道の真ん中でずっと廻り続けているのだから、人目が気になったのも事実である。元来、自分は、他人からどのように見られているかをひどく気にする人間なのだ……。視界に歯切れの悪い残像のように映る無数の通行人は、眉間にしわを寄せて彼の回転のとばっちりを受けないように迂回しながら、しかしけっして目を合わせようとはしないのだった。一度や二度ならず近所の子供が彼に石を投げたことがあった。最初は彼も額や腹にまともに石の爆撃を受けていたが、そのうち、身体の回転にあわせて石をはじき返す術を身につけ、しまいにはちょうど投げられた方角に正確に石をはじき返せるようになり、子供もよりつかなくなった。また、ときおり黒く背の高い犬が歯を剥いて吠え立てることもあったが、三日前に不幸にもその犬は彼の廻転に巻き込まれて川に飛ばされてしまい、それ以来、犬も彼を避けるようになった。
Hは廻りながら、自分の二流さ加減を吐き気がするほど痛感していた。おそらく、一流の人間なら、止まれるのである。ただ、いくら止まる理由を聞いたところで、彼にはさっぱり理解不可能であることもよくわかっていた。どうして一流の人間はああも簡単に止まれるのだろう? それにしても、厳しかった残暑もどこへやら、さいきんはめっきり涼しくなって、空気が急に秋めいてきた。これなら、いままでのように汗を撒き散らすこともない(廻っていると、必要以上に暑いばかりでなく、勢いがつきすぎるとなにやら焦げ臭いにおいすらするのである)。近所の人間も少しは自分に近づいてくれるかもしれない。そうすれば、挨拶のひとつでもして、世間話をしてみるのもいいかもしれない。なにより、いつも夕方になると白くて品のよい、しかし狸のような小犬をつれて散歩しているおそらく学生とおぼしき女性には、是が非でも声をかけてみたい。なんなら、止まって見せてもいい。そうすれば、ぼくだって、もう少しましな人間に見えるはずだ。こうも廻っていては、恋なんてできっこない。そういえば一度、ぼくがあんまりじろじろ見つめるものだから、彼女も仕方なしに微笑んだことがあった。ぼくはその微笑があまりに可憐だったせいで、かえって冷たくあしらうようにいつもより激しく廻ってしまったけれど、いまとなってはずいぶん後悔している。せめて挨拶くらいできなかったのだろうか……。だんだん指先に血が鬱血して、じんじんしてきた。玉のようにふくらんだ指先が破裂して血を撒き散らしながら廻るなんてことになったら、もう二度と彼女は微笑んでくれないだろう。
ふいに、彼の視界に白く清潔でふさふさした毛を身体いっぱいにまとったつぶらな黒い瞳の狸(のような小犬)を連れて歩く女性の姿が映った。彼女だった。最初は冗談かと思ったが、もう一回廻ってもまだ視界に狸(のような小犬)と一緒に映っていたので、これは本当だろうと思った。もちろん、今日、最初に網膜に映った女性と、二度目に映った女性が同じであるという根拠はまったくない。なにしろ、女性は一度視界から消えているのだ。だが、にもかかわらず彼女が彼女であることを証明しているのは、彼の意図とは正反対に激しくなっていく鼓動である。鼓動の高鳴りが彼の主観的な意図とは正反対である以上、それは、客観的なものにほかならない。否定の否定は肯定である。ああ、密度の濃い羽毛のような狸(のような小犬)の毛のあいだを通り抜ける秋風がなんとも心地よさそうだ。彼は思い切って声をかけようと思った。
「こんばんは。」
彼の声は、彼女がいる方向とは反対側に広がる紫桃色の夕闇にむなしく吸い込まれた。何度かタイミングを変えてやってみたが、全部失敗だった。緊張のせいでいつもより余計に廻っていたらしい。その間、形のよい唇をいくぶんゆるめて(不思議にそう見えたし、もっと不思議なことに、ぼくはそれを好意的に解釈してよいような気がしたのだった)彼女は立ち止まっていたが、狸にせかされて歩き出しそうになった。ぼくは狸の尻尾の辺りを目で射抜いて永久にその場に張り付けてやりたい気持ちになったが、そうする代わりに、あわててこう言った。
「どんな本をお読みですか。」
今度は奇跡的にうまくいった。彼女は微笑んだ。微笑むと、比喩ではなく、花がこぼれた。見るたびに彼女の周りに花が増えていった。堤防が花でいっぱいになった。
「今読んでいるのはマルクスです。」
ぼくにはよくわからなかったが、そう言う彼女は少し恥ずかしそうにしていた。いっしょにぼくも赤くなった。
「へえ。それってどんな本なんです?」
「逆立ちして歩く男の話です。あなたに少し似ているかしら。」
彼はそれにはなにも答えなかった。なんと言ってよいのかわからなかったからである。ただ、なんだかこれでもう止まる理由が完全になくなってしまった気がしたので、ただでさえ余計に廻っていたのに、もっと激しく廻転した。断続的に言葉が交わされる、奇妙な、そして不器用な会話であったが、それが可能になったことが、彼をかつてないほど晴れやかにしていた。それに「似ている」という言葉が彼をこれほど夢見心地にさせるとは思ってもみなかった。花びらが宙を舞った。彼は自分の身体が足の方からだんだん溶けてきているのがわかったが、(溶ける……)という以外にとくにこれといった感想もなく、ただただ晴れやかな気分で廻り続けた。溶けていく刹那、彼女がこう言うのを聞いた。
「私にはよくわかる、先ほど私がなぜ、あれほどの困難を覚え、なかなか始められなかったのかが。今では私にはよくわかる、私に先立って私を後押しし、語るように私を誘い、私自身の言葉のなかに宿ってほしいと私が願っていたのは、どんな声なのかが。言葉を発するのを、あれほど恐ろしいことにしていたのは、何だったのかが私にはわかる。私が言葉を発したこの場所は、彼の話を私が聞いた場所であり、ただ私の話を聞こうにも、彼はもうそこにはいないのだから。」
せまりくる夕闇のなか、こう呟いた彼女の頬に、ひとすじの涙が光った。彼女は、男の名を聞かなかったことを、ひどく後悔した。(つづく)