新しい世代の人間は、なにかを捨てながら進むと、ニーチェは言っていた。捨てるからには一度は拾わねばならない。しかしやはりそれは捨てられねばならない。われわれがそれを拾うとき、不思議なことに、じつはわれわれ自身が歴史に回収されているのである。
最初の人間が生まれたとき、すでにその腕に母の骨を抱いていた。これはおぞましいことであり、炎よりさきに灰がある、ということを意味する。だが、われわれは、ソクラテスはプラトンが作り上げたという観点をとる。つまりソクラテスは灰だったのではなく、プラトンの燃焼なのだ。
スピノザのQEDは決然たる飛躍である。誰もが、それぞれのQEDをもっている。たとえば志賀直哉なら、「気がする」。ニーチェなら、「神は死んだ」。自分から歴史に回収される必要はない。よけいなものを切り落とす勇気が、ぼくらを成長させる。
すべてを論じ尽くしたのち、わたしたちに残されるのが「文体」である。多くの作家がすでに知っていたことを、小林秀雄は追認したわけだが、彼の言葉を多くの批評家や研究者は誤解して、文体を文学もろとも程度の低い問題にすり替えてしまった。QED、あるいは決然たる跳躍。これが文体である。
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ドゥルーズは映画を運動イメージと時間イメージとに分割した。だがこれは、映画だけでなく、あらゆる芸術に言えることである。通常時間イメージにかかわると思われている音楽も19世紀には運動中心であったし、その逆の絵画でさえ、20世紀には時間イメージにかかわるものだった。
たとえばラヴェルの音楽は時間イメージに属しているし、ベートーヴェンの音楽は運動イメージの側に属している。バックハウスは前者に、グールドは後者に属す。時間によって空間を論じることも、空間によって時間を論じることもできる。われわれの時代は、どちらを必要としているのか。
日本の作家において、運動イメージを完成させ、時間イメージへの道を用意したのが志賀直哉である。彼には、両者の幸福な共存がある(いくつか例をあげると、運動イメージの側に属すのは島崎藤村や有島武郎である)。こうした問題構成は、どうやっても夏目漱石からは出てこない。
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ソクラテスはなぜ書かないのか……死後の世界を完全に信じているからだ。彼には、言葉を紡ぎ続けるという観点しかない。彼の道は歩いた先から崩れ落ちている。だから彼は走り続けるしかない。
その点、プラトンは少しだけ、死後の世界を疑っていたのだろうか。だから書いた、という観点はありうるが、それでは師を裏切ることになってしまう。むしろ彼は、書くということによっても師の音声中心主義が揺るがないことを確信したから書いたのである。
ソクラテスのいう輪廻転生で重要なのは、死後の世界があるかどうかではなく、この世とあの世はそれほど違わないのではないかという疑いである。死があることは確実だが、生と死が異なるということは確実ではない。この奇怪な疑惑に取り憑かれるや否や、ひとは文芸の世界から抜け出せなくなる。
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バッハとグールドの関係は、ソクラテスとプラトンの関係に等しい。グールドに与えられる「忠実さ」の評価は、そのままプラトンにあてはまる。ところで、クレーの描く天使とクレーの関係もまた、上記の関係に等しい。バッハやソクラテスはグールドやプラトンの描く天使である。
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ひとは自分の精神に鉄の固さと重さとを与えるべきだ。
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欧化主義の次にはアジア主義があり、アジア主義の次には日本主義があった。そしてまた近代主義(=欧化主義)があり、この問題は延々繰り返される。これらはすべて焦点のぼやけた偽の問いである。歴史学者という連中はそれに気づかないし、思想史家はこれらの(くだらぬ)結果を原因と取り違える。
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言葉そのものを仕事にしている自分からすれば、なにかしら極端な言語表現とそうでないのとがある場合、だいたい前者が間違っていると感じる。たとえばブッシュの「悪の枢軸」という語がそうだ。あるいは検察審査会の「絶対権力者」という語がそうだ。こういう極端な表現はその使用者の品性を疑わせる。
言葉の世界に生きる者にとって、取り調べや裁判で行われる言葉の扱いに敏感たらざるをえない。たとえば重く痛ましい冤罪事件があった。あのとき真理はどのような形で現れていたのか、強く悩んだ。言葉の濫用によって真理をひっくり返そうとする連中は、わたしの敵である。
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ぼくらが削ぎ落とすべきものはなにか……? 文字だ。しかし、文字の定義には注意しよう。同時に、音声の定義もまた、極限まで切り詰められるべきだ。
動物もまた声をもっている、我々と同様に。ただ我々の声はとても明瞭な音節を持っていて、より複雑なことを表現できる。とはいえ、それだけで他の動物の優位にたったのではない。我々の最強の武器は「文字」である。しかし、同時に文字は我々の重荷でもある。この荷は我々を押しつぶすほどに重い。