死は、ほんとうに取り返しのつかない、痛ましいもののひとつであるが、それは、時間概念の不可逆の本質から来ている。時間がもたらす絶滅は恐るべきものだが、しかし、その一方で、絶滅には抜け道がある。つまり、ふつうは、生物は絶滅するよりもはるかに簡単に(といっても困難なのだが)、進化する。
たとえば恐竜は、絶滅したというより、というか絶滅という観点を保存したまま、彼らは翼を得て鳥に進化することで、依然として空の王者の地位を保ち続けている。つまり、国家が滅ぶことがたとえあったとしても、そのことで国民全部が死に絶えるわけではない。彼らは別の国で別の人間として生き続ける。
これは、誤解を恐れずに、生物学的にいえば、ひとつの進化の形である。大陸の果てに追いつめられた民族が、亡命し、流浪し、列島にたどりつき、またそこで別の民族に名を変えて生きるようなものである。恐竜としてのかつての栄光は失われたが、かわりに鳥の勇気を得たわけである。
さて、空海はこんな風に歌を歌った。
三界の狂人は狂せることを知らず 四生の盲者は盲なることを識らず 生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く 死に死に死に死んで死の終わりに冥し
この歌の意味を、わたしは次のように感じる。
何度輪廻をくりかえしても、ひとは永久に生まれる瞬間や死ぬ瞬間について知ることはない。しかし、にもかかわらず、《即身成仏》というからには、彼は、《彼岸》が、生や死よりも、はるかに《近くにある》と感じているのである。
実際、われわれは、実際には経験しているはずもない、過去の歴史や未来について、どうしてこうも知った風に言葉を尽くしているのだろうか。自分の生まれも死も知らないわれわれは、どうして、それ以前の過去やそれ以後の未来を親しく語るのだろうか。人間とは、そんな不思議な存在なのである。
空海は、何度生と死を繰り返しても、それらを永久に知ることができない人間を嘆いたのではなく、というよりも、その困難よりも、はるかに、仏に進化する(彼岸に行く)ほうが簡単だと思ったのである。要するに、このとき、知が、肉体を追い越したのである。ニーチェ主義の私は、空海をこう読む。
だからこそ、わたしは、自分の生まれた瞬間、すなわち時間的にははるかに近しい瞬間よりも、それ以前の過去、ときには、人間さえ存在していなかった遠い太古の昔について、語る存在=歴史の教師でありうるのである。つまり私は、学問を種の保存のために費やそうと思わないのである。
自分は、種の絶滅を越えて飛び立つために、比喩的にいえば、知による手の乗り越えのために、学問に執着する。種の絶滅が間近に迫っているとき、これを避ける努力をするより、種を乗り越えるほうが、はるかに勝ち目があるからであり、そしてそうして努力して死んだ多くの哲学者を知っているからである。