網羅主義について

criticism
2005.09.02

網羅主義は、古典主義時代の博物学から一九世紀後半の万国博覧会を頂点とする化石的思潮というべきである(もっと古くはアレクサンダーの帝国やローマ帝国の時代、すなわち帝国の時代に主潮となったものでもある)。それが今日、とくに息を吹き返していると感じる。網羅主義の存立平面はこれだ。世界には、xyzそしてtの軸が潜勢的にあって、座標空間を構成し、空間・時間の連続性や均一性が保たれているに違いない……。こうしたア・プリオリな存立平面こそが、ヴィクトリア朝時代の古い帝国主義を再び可能にしているともいえる。なぜか。それはこういうことである。網羅主義という怪物は、最後にひとつだけ食べ残しをやる。それは自分自身である。そしてじつは、リストに空いた自分自身という穴こそが、網羅主義を可能にしている主体である(この穴に放り込まれた餌は、情報という名で排泄される)。したがって、網羅主義の座標空間は、自分でもわからないくらいに、極度に自己中心的なのである。それを知ってか知らずか、彼はこう語るに違いない。“公平な”存立平面上での力の勝負こそが、世界に秩序をもたらす唯一の方法だ、と。かくして、網羅主義とは、帝国主義の別の名である。

だが、他方で、ライプニッツ以降、近代的な知がむしろ網羅的な知識の不可能性において再出発していることを想起しておくべきである。すなわち、知にはそれぞれ固有の価値があり、その価値にしたがって知は取捨選択されねばならないという思考は忘却されるべきではない、ということである。本来、近代アカデミズムの存在理由は、知のもっている価値を明らかにすることにあったのであり、その点において、網羅的に知を摂取・消費していく在野の研究と区別されたのである。もっとも知に近しいアカデミシャンこそが、“知ること”とはむしろ“知らないことを増やすこと”だ、ということにいち早く気づくことのできた人々だからである。知は取捨選択されねばならない、という絶望的なテーゼは、しかし、《何が重要なのかが重要である》、という近代国民国家という希望を生んだのである。

今日、いわゆるインターネットという均一空間、厖大な知の宝庫、恐るべき速度で知を網羅し、情報化していく知の帝国主義に対して、アカデミズムはなす術をもたない。すべてを均一化する方向が強調されざるをえないインターネットの世界では――あるいはインターネット化した世界においては――、アカデミズムがいくらそこに知を投企しようが、それは、たんにひとつの知として仮想空間上に、あるいは仮想空間化しつつある現実上に、その他の知と同じく陳列されてしまうのである。

また、今から振り返って思えば、アカデミシャン自身が、知の価値とは無縁に、ときにはポストコロニアリズム、カルチュラルスタディーズと称して知の帝国主義――と、とりあえずここでは言い切ってしまうが――を推進してきたということも、そのひとつの理由である。こうした学知が、クレオールやサバルタンなど、基本的に名づけをその課題としていたことを想起しておけばよいだろう。こうした思考が、当初の活気を失って色あせてしまったとき、結果として博物学的な帰結をもたらさないとは言えないからだ。彼らのような問題意識をもったアカデミシャンは、結局はほとんどが先進国の出身だが、彼らのうちのどのくらいの研究者が、自身が、現地の人間よりも現地のことをよく知っているというこの知の不均衡に気づいていたのだろうか? ポストコロニアリズム・カルチュラルスタティーズでは、問題を解決することはできないし、また他方で、むしろ別の問題を抱えてしまうことにも注意しておくべきだったのだ。結局、こうした知はアメリカ帝国主義の復活を押し止めることはできないし、むしろ、アメリカ帝国主義によって回収・浪費されるだけだろう。

《現在》のいびつさは、それだけで、《過去》という知の宝庫に埋もれている厖大な知に対してさまざまに異なった価値を与えている。網羅主義とは、この《現在》の忘却によって、すなわち時空間の不均衡を忘却することによってはじめて成立する。このいびつな価値を形成した市場こそが、近代国民国家であった。領域に応じて異なるさまざまな価値をもつということ、それがいわゆる“文化”を形成し、世界をいくつかのブロックに分割したのである。そして、この思考の行き着いた先が、二度にわたる世界大戦とナショナリズムであったことも、想起しておくべきだろう。希望はすでにして絶望である。問題は複雑である。

網羅主義はいずれにせよ、遅かれ早かれ不可能に直面する。インターネットに限界はない、しかし、人間の側には依然として限界があるからである。また、《現在》のいびつさに、誰もが気づく社会が訪れるからである。現在の政府が既得権益を守ること、あるいは貧富の差を増大させることを主眼としていることは、そのことをさらに加速させる。知を網羅しているのは依然として一握りの人間であることに、人々は気づくだろう。時を経ずして、知の網羅、すなわち量的側面よりも、知の質的側面こそが重要となる世界がやってこよう。問題はその後である。国家が――とりわけ国家に近しいアカデミシャンたちが――知の価値を取捨選択し、そうした知を国民に浸透させようとするだろう。彼らはむしろ善意の名においてそうするだろうが、そのことはナショナリズムという別の問題を起動させるのである。

結局のところ、近代的な学知とは、網羅主義にはじまり、価値主義へと至る、ある一定の長さをもった線分なのである。この線分からいかにして離脱するか。インターネットの可能性が開示されるのは、おそらく、網羅主義から価値主義へと学知が転回する、その瞬間であるに違いない。したがって、問題は、現状の網羅主義からいかにして抜け出すか、その抜け出し方である。

HAVE YOUR SAY

_