わたしは「言葉」について、昨今流通している言語論とは違う考え方をしている。ひとは本質的におしゃべりである。喋るのをやめることはない。
最後の言葉があるのだろうか。誰が最後の言葉を吐くのか。最後の言葉はなにか。最後の言葉は、やはり「ん」なのか?
いや、句読点がある、というひともいるかもしれない。いわゆる「、」や「。」のことだ。しかし、「。」は、べつに現実には終わりを意味していない。ひとはまた喋りだすからだ。これらはせいぜい、短い休符(たとえば八分休符)と長い休符(ひとによっては四分休符くらい)だと考えるしかない。
ひとは、言葉にいつも小さな締めくくりをつけてはいても、死ぬまで喋るのをやめないだろう。声を奪われれば文字で、手で、表情で。とにかくなにか喋っている。
それどころか、ひとは死んでも喋りつづける。たとえば遺言や歴史がそうだ。ひとの歴史は、終わることを想像するのがきわめて困難な言葉のタペストリーであり、両親の言葉を、子は意味ではなく言葉として紡いでいく。
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遺言の意味を作るのはだれか。けっして先祖ではない。残された子孫である。遺言作成者の意図は、この際、どうでもよいのだ。もちろん、遺言の真意を探ろうとする子孫の努力は否定はされない。だが、じつは肯定もされない。答えがわからないからである。それこそ不可知の物自体だ。結局は、子孫が、その意味を言葉で表現する以外にない。
遺言作成者の意味を作るのは子孫である。しかも意味といっても、それは行為として必ず表現される。したがって、この場合、言葉に隠された「意味」という思考法は、不必要である。この思考法それ自体が、行為や表現としての言葉を、つまり自らの力を自ら覆い隠す悪い言葉である。
反対にいえば、言葉を実践化ならぬ「意味化」するような、特異な使用法が存在する、ということである。意味は、多くの場合、遺言作成者の真意を探る、という形でねつ造される。あるいは、ぼくとあなたとの間で意志疎通できていない、と意志疎通を否定する言葉によって、そのネガとしてつくられる。
人類の会話は、いまのところ、終わったことがない。いつ始まったのか、もう覚えていないが、終わることが想像できない。言葉は人間に似ている。というより、人間が言葉に似ているのだ。ここまで言葉に似た生命などほとんどなかったほどだ。
それでも言葉が終わると考えているひともいるかもしれない。つまり、人類が滅亡する可能性だ。だが、もしそのような事態が来そうになったとしても、賭けてもいいが、言葉が終わるより先に人間の方が終わる。そして、これは賭けというより論理だが、人間に似た生命体が、再び言葉を紡ぎ始める可能性の方がはるかに高い。
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言葉によるコミュニケーションは不完全である、という思考法には、完全な意思疎通がありうるという前提がある。しかし、その前提は誤りである。コミュニケーションにおいて、ひとはそもそもオウム返しやトートロジーは求めていないからである。
ひとは他者に対して、自分の言葉を別の言葉に変化させることを望んでいる。自分の子供に対して、まったく自分のコピーとなることを望むような親はまず存在しないのと同じことである。常住不変の物質が存在しない自然界同様、言葉もまた、変化が望まれている。
言葉が別の言葉に変化すること、それが、意味と呼ばれるものの真の実践である。しかし多くの場合、「言葉を意味化する」とは、むしろ変化した言葉をもとの言葉に回収する悪い装置として機能する。
ある言葉を理解する、とは、言葉の意味を学ぶことであるが、そのプロセスは、ある言葉を、別の言葉に置き換えることである。AはBである、という文章によって、AはBに変化する。ヘーゲルは男である、という文章は、ヘーゲルを男に変化させる。
セザンヌが林檎を描くとき、ニュートンが林檎に万有引力を見出す時、林檎は彼ら独自のものに変化していく。この変化を自然が回収すれば科学と呼ばれ、作品が回収すれば芸術となる。彼らは、それぞれ林檎から別の言葉を引き出したわけである。
ミクロ物理学までいくと、芸術と科学の差はなくなってくるのだが、いずれにしても、現行の自然が回収できないような強い変化は、作品を個人的なものに、すなわち芸術的にする。とはいえ、自然はすべてを回収する。どのような自然が? 未来の自然がである。したがって、芸術には予言的なところがある。
言葉には、本質的に、伝言ゲーム的なところがある。伝言ゲームと異なるのは、出発点となった言葉はもう忘れ去られていることである。起源は忘れ去られており、われわれの使う言葉の「真意」は誰にもわからない。
起源を求める欲望は、とことん挫折する。しかし、それはどうでもよいことである。問題は、隣り合う言葉同士が、いかなる変化を遂げているか、だからである。いってみれば、その都度、自身こそが起源なのである。
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美とはなにか。美は、未来の指針であり先取された未来である。〈歴史も含めた現在〉がもつ潜在的な変化の力を先取りすることである。伝言ゲームに興じるうまいプレイヤーは、この言葉はこう言い換えられるよ、と考えてプレイしている。同じ語を繰り返そうと思っていない。