なにか書かねばならない。
さて、世の中、腐っている。世の中が腐っている以上、当然、自分も腐っているのだが、とにかく自分も含めて世の中は腐っているし、自分にも世の中にも腹が立って仕様がない。子供だと思われてもいいから、一度くらいは本当に《自由》になろうと考えてみるべきだ。不自由を受け入れることが大人である、ということは、どのような意味であろうと、受け入れるべきではない、とわたしは考える。「不自由を受け入れることが大人である」ということは、死ぬときにはじめてそう言えるのであって(だから厳密には言うことができない――なぜなら、自分が不自由であると語る自由がなければならないからである)、さらに言えば、それは歴史上の人物に対して述べる言葉以外のなにものでもない。《自由》なくして生きていられる輩がいるとしたら、それは誤謬的存在である。つまり非在である。逆に言うと、ひとはすでにして自由である。
ひとは、自由と不自由、あるいは自由と秩序のあいだで弁証する。そしておそらく、この弁証の果てに、それらの合一形態であるような、秩序を見出すだろう。だが、言っておくが、それは早分かりである。それは思っているほど深い理解ではなく、また深い理解の方が浅い理解よりも正しいということも、じつはそれほど確実なわけではない。秩序といったところで、それは死んだ秩序である。というか、秩序とは、厳密には死以外のなにものでもなく、またそうでなければならない。生きた秩序などはないのである。ドゥルーズ流に言えば、もしそのようなものが感じられるとすれば、それは秩序ではなく反復なのであり、つまり、差異の再生産である――といっても、そう呼んだからといって、それで批判されなくなるわけではない。反復も、そして差異の再生産もまた、批判されねばならない。
ヘーゲル流の、自由と秩序との合一形態であるような秩序とは、《歴史》以外のなにものでもない。《歴史》とは、わたしの「わたしの過去」――つまり記憶の想起、キケロ=アウグスティヌス流にいえば、「過去についての現在」――が、「他者の過去」でしかなくなるとき――つまり、記憶が、「現在」の地平を離れた、たんなる過去の地平に置かれるとき――に、はじめて《歴史》と言えるのである。そして、「わたしの過去」が現在を失うことは、すなわち、死以外のなにものでもない。この死において、歴史上の人物、おそらくはとりわけ勝者として生前は自由をより謳歌していたに違いない歴史上の人物は、生きているときに享受していた自由が、じつは不自由や秩序の謂いにほかならなかったことを知らずして知るのである。だから、じつは、ヘーゲルは正しい。歴史の終わりを生前に見たヘーゲルは正しいのである。逆にいえば、ヘーゲルは、つねに死においてしか歴史を語らなかった。ただし、死である歴史を、生前に語るという《矛盾》に、彼が気づいていたかどうかは別として(ほとんど気づいていると言っていいほどなのだが)。彼の精神現象学、すなわち有機体の思考は、死体をまるで生きた人間であるかように扱う解剖学的知見を批判していたのであって、つまるところ、精神現象学とは、死体を、正当にも、もう一度殺すための学として磨き上げられている(というか、学、ヴィッセンシャフトとは、そのようなものなのだ)。このとき、身体は、すなわち時空間とともにあるような物体は、その精神と分離したのであり、精神は時空間を求め、同一化を欲望してさまよう難民となった――ナショナリズムの、そして近代国家の誕生である。
むろん、われわれはこうした有機体の思考を拒絶すべきである。かつて、ローマで、こういうことがあった。民衆が貴族の専横に怒り、ローマを退去した。民衆は言う。条件が飲まれないのならば、われわれはローマを離れる、と。そこでアグリッパという名の貴族が、民衆をこう言って説得しようとした。貴族は胃であり、民衆は手である。胃と手が別々のことを考えていては、死を待つばかりではないか、と。だが、民衆はその説得を当然、拒絶した。民衆は、護民官と平民会、すなわち、元老院とは異なる立法機関=器官をもつことに成功したのである。胃と手はばらばらに考える――というよりはそのような役割分担・器官を拒絶する、ということを選んだのであり、にもかかわらず、ローマは千年の永きにわたって、栄華を誇りえたのである。もともとローマはそのような思考を好んだ。ポリュビオス=キケロが言っているように、元老院、二人のコンスル、平民会は、それぞれ、理性、悟性、感性に対応しており、それぞれが同等の資格をもつ――多頭症ヤヌスの共同体である。今日、それらは、男と女のあいだで繰り返されているに違いない。男は男であり、女は女である――ローマ的思考を受け継ぐべく、ヨーロッパはそのように思考しようとするだろう。だが、アジアとて、そうであったはずなのだ。日本は日本であり、中国は中国である。大阪は大阪であり、東京は東京である。天皇は天皇であり、将軍は将軍である――。
千年の永き――むろん、それは歴史である。だから、貴族と民衆の対立にもかかわらず、そこには秩序があり、そして有機体がある、ということは不可能ではない。だが、そういえるのは、それが歴史だからである。つまり、死んでいるからなのだ。有機体とは、普通考えられているのとは逆に、死の思考なのである。規律社会から管理社会へと変わったとて、この死の思考は変わらず残存している。極限において、《それ》は機能している。生政治という名の、死の思考。――たしかに、ヘーゲルは正しい。だが、それ以上に、フーコー、そしてドゥルーズは正しい。
だから、わたしは言う。自分が生きていることを想起できるかぎり、わたしは自由でなければならない。現在を捉えることも、過去や歴史を捉えることと同じかそれ以上に困難なことである。現在は、容易ならざる顔貌をもっている。現在を生きることが、どれほど自由を必要としているかを知るべきである。過去の秩序が、現在の自由によってのみそう言えることを知るべきである。これは、思考の大前提である。思考が始まるとすれば、ここにおいてのみである。