自分が政治家だとしても……

criticism
2021.06.21

もし、自分が政治家だとしたら、民衆にむけて、なにを語るだろうか。

民衆に対して、民衆自身の感じている不安と孤独とに寄り添う、と語りかけ、その一方で、自由を愛せ、勇気を持て、というだろう。不思議なことに、歴史に対する自分の態度もそれと同じだ。学者としても、政治家としても、一人間としても、他人に語りたいメッセージは同じである。自分はもともと、学界に向かって仕事をしていない。自分の目は、社会に向いている。いつも、身近な他者に語りかけるようにして、文献と向き合い、政治と向き合い、人間と向き合っている。

実際、歴史のなかの人間は、不安と孤独のなかで息をしながら、それでいて、自由を愛し、そして勇気に満ちている。

歴史上の人物のほうが、ほんのすこしだけ多く、自由を愛し、そして勇気に満ちていただけで、われわれとほとんど変わらない。もしかしたら、われわれよりもずっと繊細な精神の持ち主で、ひとより多く、不安や孤独を感じていたかもしれない。ともあれ、われわれはまだ生きていて、彼らの努力を見習う時間が残されている。追い越せないにしても、追いつくには十分な時間だ。不安と孤独とをおのれの精神にしかと刻もう。そうした弱さを知るからこそ、自由を求める勇気を身に纏うことができる。不安だけなら、日々心のどこかで感じているはずだ。それを自分のもっとも深いところで響かせる、それでいい。

日毎に襲う、いつも同じ、だが装い新たな不安と孤独とに苛まされながら、それでもひとは勇気に満ちて立ち上がる。なぜなら、自由を愛しているから。歴史は、そうした人間たちの歴史だったはずだ。歴史学界の一部にはそういう政治的なジャンルを中心にやっているひとがいる、というのは、このテーゼの反論にまったくなっていない。自分は、歴史に携わる全学者に、その態度と行動とを求めている。歴史上のひとびとが自由を求めたのと同じ、強い態度を、自分は求めている。

それだから、自分はいう。あなたの感じている不安と孤独とをもっと知りたい、と。そしてまた、そんな不安なあなたに言うのだ、自由を愛せ、勇気を持て、と。それが自分のなかで、もっとも真剣な、真面目な、残酷な、そしてやさしい、他人に接するときの態度だから。

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