生物学者の高木由臣によれば、たとえばバクテリアは死ぬ能力をもたない、死ぬことができるのは有性生殖をおこなう生物のみ、すなわちDNAのやりとりによって親と異なる遺伝子個体を生むことのできる生物だけである、という。
そこからいえることがある。王の二つの身体、すなわち死ぬ自然身体と不死の社会的身体のうち後者を強調したカントロヴィチは、端的にまちがっているということである。前近代、つまり非民主的な社会においては、じつは民衆こそ、死ぬことができない、たったひとつの自然的身体をもつ。むろん、生物学的には、一人一人、異なる個性をもち、しかも死ぬべきはずのものだが、社会的には、民衆はどこまでも民衆のまま、それが誕生したときと同じ身体をたもちつづける。王は異なる。死ぬことができない、血脈に結晶するひとつの自然身体と、そしてそれに加えて死ぬことのできるひとつの自然身体をもつ。社会的にいって、個体の死が問題になるのは——いいかえれば、死ぬことができるのは——王だけなのである。
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かつて個体としての死が訪れるのは、王だけだった。こうした個体としての死の観念の階級を超えた全面的拡散、いいかえれば人間の死の発見がなければ、革命も民主主義もありえない。革命とは、民衆が為政者に対して、自分たちも死ぬことができると教えることである。
生物が個体として死ぬためには、種による死の能力の獲得が先行しなければならない。個体の死は、有性生殖をおこなう生命が体細胞と生殖細胞とにおのれを構造化したところにはじまる。そのことは、個別の死が種としての永遠を実現するという弁証法的過程とはちがっている。
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われわれは、種に対して、対立的に個体を立てることに慣れている。それは、集団に対して個人を立てることと同じである。なぜ慣れているかといえば、有性生殖の仕組みを所与のものとして前提なしに受け容れているからである。しかし、その前提は無条件なものではない。有性生殖の獲得という、自然史上の事件がなければならない。したがって、本当に対立しているのは、種に対して個を立てるそうしたやり方と、たんに個を積み重ねることを種とみなすやり方である。
その点、ドゥルーズのいう「単独性」は、柄谷行人のいう「単独性」とはまったく意味が異なる。柄谷はドゥルーズ(ないしキルケゴール)を参照しつつ自身の単独性論を展開したのだが、柄谷のそれはドゥルーズのいうsingularité(singularity、可算名詞)ではなく、数えられぬuniquenessである(柄谷やレヴィナスとドゥルーズをごた混ぜにする多くの他者論は、この点を看過している)。
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ドゥルーズは、《個別性—一般性》の軸と《単独性—普遍性》の軸を立て、後者を重視した。柄谷行人はこれを他者論のなかで参照し、同じく単独性という言葉を用いて、「他ならぬこの私」という言い方をしていた。一般性には所属しえないような個体性である、と。
たしかに「この」私は、一般性には所属しえない個性をもつ。しかし、この個性が、なぜ「普遍性」に至るのかを説明するのは容易ではない。その点で注意を払わねばならないのは、ドゥルーズがsingularitéという可算名詞を用いたことである。
日本という国家(種)の破滅は、同時に日本人(個体)の死滅を意味している。そのことはまちがいない。また、その反対、すなわち日本人の死滅が日本国家の滅亡を意味していることもまちがいない。しかし、種さえあれば個体を増殖させることができるという有性生殖上の観点から、種のために個体が死ぬという観念が生じる。いいかえれば、天皇のために国民が死ぬ、親のために子から死ぬべき、という観念である。たしかに、この観念においては、個別の日本人の個々の死は、日本という国家の破滅、ないし破滅への接近を意味しない。ここには、個体の死と種の生と、すなわち正反対のものを結合させる弁証法が存在している。
だがこうした弁証法が現実的なものでないことはあきらかである。ほんとうのところをいえば、純粋な種なるものはなく、種は同時に個体だからである。種は、個体のうちに含まれているのであって、純粋な種的存在なるものは唯名論的なものにすぎない。(有性生殖する)生命は、種と個体とによって構造化されているのではなく、種は個体の伝達物質にすぎない、といってもいい。
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ガラパゴスゾウガメという種のうちでただ一匹残されたロンサム・ジョージの立場に立って考えてみよう。彼の死は、同時に種の絶滅を意味している。この場合、個別の死は、たんに全体の死である。彼はいったい王なのか、ただひとりの民にすぎないのか。ここではそれは論証できないが、幸運にも別の一匹の個体が発見され、しかもそれが雌だったとしよう。このカップルから、遺伝的に異なるロンサム・ジョージ・ジュニアが生まれうる。しかし、この段階で、シニアを残してジュニアはみな死んでもかまわないと思う者はいない。遺伝的に異なるロンサム・ジョージ・ジュニアの死は、種の死、すくなくとも絶滅への接近と同義である。それは田辺元の種の論理の完全な反証となっている。先の弁証法的な過程においては、個体の死は隠されているということであり、死ぬことができるのは唯一の種だけだと暗黙に考えられているのである。
しかし、こうした弁証法的な欺瞞を取り除いたところにみられるのは、個体の死は、その分だけ着実な種の死への接近を意味するという観点である。このことが、可算的な「単独性」の意味である。「ほかならぬこの」ロンサム・ジョージをわたしは愛していた、というuniquenessと異なり、なんらの質的飛躍なしに、全体に達することができる。なぜなら、一は多にもなれるからである。
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もともと、個別性と一般性とは対立していると考えられてきた。だからこそ、種が先立つのか個が先立つのか、という論争が古来生じてきた。したがって、これらを結合するためには、個体の死が種の永続を実現する、という弁証法が必要になると考えられた。
実際、われわれは通常、「私」を殺すことで、集団が生きる、という考えをしがちである。「個人」が反社会的概念だと見られがちであるように。しかし、個別性と一般性とを対立させているのは、むしろ弁証法のほうである。
柄谷のように一般性に所属しえない個体性こそ単独性であるといっても、単独性と普遍性とをひとつの軸に結びつける観点からみれば、不十分なものである。そうした個性uniquenessが普遍性にいたるためにはどうしても質的飛躍が必要だからであり、したがって、その質的飛躍を穴埋めする媒介、すなわち弁証法的過程が必要となる。さもなければ、そうした個性はどこにも回収されえないのだ。
たとえば、「お国の為に死ね」という言葉には、個別性と一般性とを対立させる弁証法がある。それに対してかけがえのない個性なる観念を持ってきたとしても、それを即座に普遍性と呼ぶのは一種の強弁にすぎない。個体の側からいえば、いくら個性的であっても、この議論には普遍にいたる出口がない。そのことは、裏を返せば、「お国の為の個別の死」が、死を意味できないのと同じことなのである。いつまでたっても、民衆は、その生物学的な死にもかかわらず、社会的に死ぬことができない。彼らはずっと民衆のままだ……。
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戦時中、折口信夫は戦地に向かう学生に、こんなことをいっていた。《みなさん、生きて帰ってきてください、みなさんが死ねば、国文学を継承していく者たちがいなくなってしまいますから。》
それを聞いた若者たちがすすり泣いたこの折口の言葉、これが、単独性—普遍性の軸である。ここでは、個体の個性uniquenessはとりたてて考えられていない。たんに、個体の死が同時に種の死でもあるような、いいかえれば、可算的な「1」の消滅が全体においても「マイナス1」を意味するような、そうしたあたりまえの事態を指摘しただけである。しかしそのことによって、折口はほとんどはじめて、学生の死が社会的な意味でも死であることを指摘したのである。ひとりの死は、その分だけ共同体の死につながる。いわばひとりひとりが、その種のなかでただ一匹残ったロンサム・ジョージだと考えられるような世界において、はじめてこの軸は出現する。
《私が死ねば、その分だけ人類もまた滅びに近づく》。こうした孤独な私こそ、単独的な私である。しかもこの私は、複数になることによって、全体に達する私である。この地点に立ってはじめて、一人でも多くの人間が、とりわけ若い個体こそ、生き残らなければならない、という考え方が生まれる。これが単独性—普遍性の軸である。こうした軸においてはじめて、弁証法なしにわれわれは多と一とを同じように思考できるようになる。一は二にもなれば三にもなれる、単独的な者たちの共同体が可能となる。
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生命が死の能力を獲得して種となったとき、つまりわれわれの生が死と隣り合わせになったとき、はじめて、《生き延びる》という概念が可能になった。一秒ごとに死に接近する、言い換えれば生きるその度ごとに死んでいくわれわれにとって、生は、死とともに時間的なものとなったのである。
若者たちのひとりでも多くが、なんとしても生き残らなければならない。あなたたちの死が、われわれの滅亡に直結するからだ。われわれは多であるが、同時に、一なのである。あなたの手の中で握りしめられた《一》は、同時に極大の価値に達しているのである。
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ふたたび折口の言葉をくりかえしておこう。若者たちには、なんとしても生き残って欲しい。あなたがたが死ねば、日本の人文学は滅んでしまいますから……。