ミシェル・フーコーは、国家、あるいは権力について、「管理」される状態や「規律」化された状態と結びつけて議論した思想家だと考えられている。だが、彼は管理や規律とあわせ、「主権(法)」についても論じていた。むしろこの三つの状態の変容や配分において、国家や権力について語っていたと考えたほうが生産的である。より内面的で、自発的な主体=臣民化をおのれに課す《規律》。より肉体的――というよりは物体的で統計学的な論理のもとで民衆を扱う《管理》。そして最後に、民衆が国家に望むこれら二つの要請によって、順次蓄積された膨大な権力によって民衆を暴力的に扱うことを可能にする《主権(法)》。
規律がもっとも高次の支配方法であり、主権がもっとも低次の支配方法などと考えてはならない。むしろこれらは経済的あるいは文化的に、無数の民衆の要請がときと場合に応じて(たとえば蓄積されて手に負えなくなった反道徳的な行為や規範を共有しない者によってなされる重大な犯罪、あるいは諸外国との戦争や太刀打ちできない災害に直面した場合に)作り上げる一種のベクトルであって、これらはそれぞれ《よい国家》の条件でさえある。これらはすべて、民衆を《守る》ために構成される権力であって、状況に即して高度に民衆を防衛するためのメカニズムである。そして同時に、それらは権力的にふるまい、民衆の生命にまで及ぶ《統治》を可能にする。そのため、これら三つの権力の様態は、「よい」国家であろうと「悪い」国家であろうと、それらが作り上げる《統治》に対する民衆のさまざまな抵抗のあり方を決定する条件にもなっている。
管理や規律によって国家を語る場合、とくに日本人が注意しなければならないのは、災害や戦争のような極度の、かつ典型的な例外状態において特に要請される主権的・法的な権力を、日本という国家が著しく欠いていることである。日本という国家は、アメリカの《基地帝国主義》の最良の事例を提供し、なおかつ国家の最高法規である憲法よりも国際法規のほうが超越していることを憲法自ら認めるという、先進諸国では類を見ない憲法を戴く、比較的特殊な国家である。したがって、フーコーの議論をその表層において日本に適用しようとすると、どうしても上滑りしてしまう。といっても、うまく当てはまらないのではない。むしろ主権がないゆえに、規律や管理のような概念があまりにも当てはまり過ぎるのである。そのため、かえって国家が保持している主権的な暴力(ベンヤミンの言葉でいえば「神話的暴力」)が見過ごされてしまう傾向がある。実際、管理と規律とにかけて、日本ほど緻密な国家もそうはないだろう。それは、主権(法)的権力を放棄したすえに、長い年月をかけて進化した奇怪な権力の姿である。
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この点からいえば、日本において再軍備を含む「独立」を志向する政治家には、一定の留保が必要としても、「ふつうの国家」という観点からある程度の論理性が生じている。そして同時に、こうした政治家は、下から(民衆)も、上から(アメリカ)も容認されない傾向があったことは戦後の歴史がよく示しているところである。
そしてこの特殊な様態をつづけてきた日本という国家が、破局的な災害とそれを引き金にして生じた未曾有の原子力発電所事故において、その欠陥を如実に露にしていることも、周知の事実である。国民の生命を守るという国家の存在理由を依然として電力会社という一企業に預けたまま、治安と道徳の維持のために、(原発の安全性を語れなくなったいま)放射性物質の安全性だけを訴えつづける空虚な言説を発しつづけていることからも明らかである。治安=管理と道徳=規律という観点でしか、日本という国家は国民を守ることができない。国民と同じレベルになって、同じ水平な目線から、電力会社の下層にいるひとびとの孤高で高貴で崇高な奮闘を仰ぎ眺めていることしかできない。六十六年前に軍隊を放棄したとき、同時に日本は失ってはならない勇気をも放棄したのかもしれない。アメリカの行なった外科手術が、切り取ってはならない神経まで切り取っていた、と言ってもいいだろう。われわれの国家に対する抵抗は、きわめて捩じれたものにならざるをえない、ということである。
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しかし、日本という国家がどのようなものであれ、反権力的な人間に可能な抵抗は、けっきょくはひとつしかない。それは、規律、管理、主権を逃れて、美しい言葉を紡ぎつづけることである。誰も耳にしたことのない美しい言葉は、ただそれだけで古い国家を少しずつ腐食させる。権力がどのような様態にあろうと、いずれもが、おのれの《超越》を隠すことによってこそ、権力なのである。権力はたえずおのれの優越をひた隠しにしながら、ついには超越として突発的におのれを露呈させる。しかも、多くの場合に、おぞましい権力の姿を見た者は即座に暴力的に抹殺され、そのことによって隠蔽状態を永続させる。権力とは、民衆それぞれが必要に応じて、とりわけ良心によって隠蔽してきた優越の蓄積された姿である。したがって、精神の振動を裸身と同じほどにあからさまにする美しい言葉は、ただそれだけで、反権力的である。心の底から(これは比喩ではない)、おのれの精神にもっとも正直な言葉を発することがどれほど困難か。しかし、多くのひとびとが誠実に超越について思考し、そして超越のためにおのれの精神を捧げる美しい言葉を発する勇気をもつことができたなら、その勇気は、主権を超えて人間それ自身を自立させるほどに国家を不要のものとし、そして同時に、新しい国家の建設のために、肉体のすべてを活用させる仕方をひとに教えるのである。
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