「地獄の時間としての「現代(モデルネ)」。この地獄の懲罰とは、いつでもこの一帯に存在している最新のことがらであり続けねばならないということだ」
「まさしく最新のものにおいて世界の様相がけっして変貌しないということであり、この最新のものが隅々にいたるまでつねに同一のものであり続けるということだ。――これこそが地獄の永遠を形づくっている」
――ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論V』より
このベンヤミンの、モードについての一節をヒントに、彼の歴史の天使を後ろむきに飛ばす風が何なのかを追求したい。私が前節で述べた「変えること」というのは、けっして、「最新のことがらであり続けねばならない」すなわち変わりつづけることにおいて変化しない、ということを言っているのではない。まるで正反対のことを言っているである(ことわっておくが、もちろん、ベンヤミンは上の記述を批判精神において書いたのであり、私の意見は何らベンヤミンに反対するものではない)。
これをふまえたうえで、ある悲観的な指摘をしたいと思う。……
過去の多くの歴史家が、「歴史」に「意味」をもたらすべく実践し続けてきた「解釈」という技法では、われわれは一向にこの「歴史の天使の風」をつかまえて未来へと飛び立つことはできないであろう。なぜなら、「解釈」とは「最新のことがらであり続けねばならない=つねに同時代的であろうとする」ということにおいてのみ実践されるものであり、現実にはこの「解釈」こそが「地獄の時間としての現代」を演出しているのである。「解釈」という中間搾取の形態は「風」から、動的なものをすべて奪ってしまって、静的なものだけを残す。砕いて言うと、歴史家は、可能性(可変性)を認めない。古文書から、不可能性だけを読み取り、可能性の文字を抹消する。あるいはドゥルーズならこう言うだろうか。歴史家は、主観的な可能性のみを残し、客観的な可能性を実現させようとはしない。そこにあるのは「疲労」であり、もはや風に乗ることすらできないほどの「疲労」があるだけである、と。古文書にただひとつ残される「疲労」をもたらすのは、無意識のうちに歴史的ア・プリオリによって絡めとられた同時代的精神であるにちがいなく、この「疲労」こそが「解釈」の意味するものにほかならない。
さて、「歴史の天使の風」とはいったい何か。ここでエルンスト・ブロッホの「大いなる瞬間、気づかれずに」と題されたエッセイの一節を引用してみよう。
「真正なる<いま>の代用品として、あきもせずに「いまという時代」、安物の「いまという時代」が、「ゲネラールアンツァイガー」〔中立を標榜した新聞の名前〕的にくり返される。そうすることで「歴史の秒針」の役割を演じるためである。新聞はケース・バイ・ケースで「世界史的」な瞬間をすら知っていることがある。しかし、それはおおむね「世界史的」な瞬間とは似ても似つかぬただの大見出しにすぎず、本当のアクチュアリティはごく小さなニュース、あるいは報道すらされなかったニュースの中にひそんでいるのだ。」
――エルンスト・ブロッホ『異化 I ヤヌスの諸像・II ゲオグラフィカ』所収
この「ごく小さなニュース、あるいは報道すらされなかったニュース」にこそ、歴史の天使の風はある。これらは、報道すらされない、いわば、きわめて同時代的ではなかった事件なのであり、だからこそ、それにもまして反時代的でありえるのである。歴史とは、けっしてエポックによる区分で確証されるのではない。そして、最初は小さなつむじ風にすぎなかった「風」は、しかし生まれた瞬間に、歴史の風、それも瓦礫の上にさらに瓦礫を投げつけるような暴風となることを運命付けられているのであり、じつは、それを運命付けることこそが、真の歴史家の仕事なのである。そして、その運命付けとは変えることにほかならず、変えることとは、もはや未来の可能性をも「消尽」して、「さらに終わること」にほかならない。