言葉について/自然

philosophy
2010.04.27

文学や歴史はぼくらとは違う時間を生きている。文字といっても生きている。音声中心主義を批判するひとたちは、死んだ文字を相手にする。だけど、筋金入りの音声中心主義であるぼくらは、文字も声と同様に生きていると考える。それは、ソシュールでもデリダでもなく、そのあいだにとどまることだ。

すべては絡まり合っていて、結局ただひとつの目的にむかって結び合わされている。ある種の歴史は、この目的のことを知っていて、そこに向かっている。だけどひとは、いつもその目的の前で尻込みしてしまう。ぼくらは、結局そこに向かっている。離されないように、すこしは急いだ方がいい。

目的を恐れる必要はない。ひとはもっと目的をもつべきだ。といっても、それは他人のものであってはならない。誰もが自分自身の目的をもっている。それ向かって飛ぶことができてはじめて、自分を表現できる。どれほど急いでも、それでもソクラテスやニーチェはぼくらから遠ざかっていく。

バックハウスと同様に、でも違った形で、グールドもひとつの音を追い求めていた。グールドの演奏が苦手なひとがいるのはよくわかる。彼の演奏は、ずっと作曲に似ているからだ。たとえばハンマークラヴィーアを弾くグールドの演奏は、なによりドゥルーズに近い。

たしかに言葉は遅れている。そういう風に考えることもできる。だけど、素早い言葉というものもある。ある種の言葉はぼくらよりもずっと速いスピードで走っていて、なかなか追いつけない。たとえば、「真空」という言葉がそうだ。この言葉は、ぼくらよりもずっと早い。

ぼくらはずいぶん、言葉に楽しませてもらってきた。だけど、そのお返しを充分にしてきただろうか? そういう問いは人間が謙虚であるためには必要なことだ。

「未規定」という言葉は、二つの意味をもっている。ひとつは、人間がまだ自然を規定していないという意味であり、もうひとつは、積極的に自然のほうが未規定という言葉を要求する場合だ。この場合、未規定という言葉によってはじめて、その状況が出現する。

自然と結び合わされた言葉だけを紡いでいけば、それはすばらしい文学が書けることだろう。そんなことができたひとはほとんどいない。だけどぼくらはそれを目指す。

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