さて、わたしは、言葉は、《力》だと考えている。先の自己対話的エッセイにおいて、完全にAの主張に同意する。言葉は不完全であるとか比喩であるとかいったBのような思考にはうんざりしている。ニーチェは「権力への意志」について語った。わたしが、「言葉は《力》である」、というとき、その《力》は、ニーチェのいう「権力」とほぼ同じである(権力と訳すか、力と訳すかは微妙なところであるが、わたしは、どちらでもよいと思う――というか、どちらにも、誤解の余地がある)。また、《物自体》もないと考えている。そのようなものを立てる必要はまったくない。だから仮象も必要がない。むしろ、異なる二種類の表象があると考えるべきである。
厳密に考えよう。わたしたちは、椅子を持ち上げることはできない。わたしたちが椅子を持ち上げていると思っているとき、その椅子は、すでに椅子ではなく、木や金属、皮その他もろもろの素材で出来たなんらかの物体を持ち上げているだけである。椅子は、わたしたちが腰を下ろすとき、はじめて、椅子となる。つまり、椅子が椅子となるのは、木や金属といったなんらかの物体が、実践的な諸空間に所属し、現実に機能する場合だけである。同様に、わたしたちは、階段に座ることもできるが、その場合、すでにその階段は階段ではなくて、椅子である。ヘーゲルは、理念は現実的でなければならない、といった(1)が、それは、こうした思考法のことを指している。そして、わたしは、この思考法に完全に同意する。「椅子」という語が、現実的である場合、すなわちひとが腰を下ろす場合にしか、椅子となることはないし、したがって、逆にいうなら、現実はつねに-すでに理念でなければならないのである――言葉イコール出来事でなければならない。
しかし、わたしたちは、椅子を持ち上げることもできる。持ち上げられた椅子があるというそのかぎりで、椅子は、持ち上げることができる。その点でいうなら、わたしたちは、言葉を、その手で握り、持ち上げることもできる。ひとが、言葉を把握するというとき、じつは、ひとは、本当に、椅子を握り締めるように、言葉を把握しているのである。これは比喩ではなくて、現実である。
政治的実践と、ひとがいうとき、それは、上にあげた言語的実践と同じである。言葉が実践的である場合にのみ、政治は実践的なのである。したがって、言葉は、つねに、政治的でありうる。こうした言葉を、フーコーはエノンセ(言表)と呼んだが、わたしは、この概念に同意する。こうした概念は、根本的に、認識の檻=監獄から、すでに飛び出している。すなわち、《外》の思考である。ニーチェの「権力への意志」も、フーコーのいう、「エノンセ」への意志と読み替えられる。
ヘーゲルがおかしいのは、次の議論が折衷されていることである。すなわち、「哲学がその理論の灰色に灰色をかさねてえがくとき、生の一つのすがたはすでに老いたものとなっているのであって、灰色に灰色ではその生のすがたは若返らされはせず、ただ認識されるだけなのである。ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる」(法の哲学)。つまり、彼の議論は、本質的に、「たそがれ」時、つまり反省的な「認識」のなかでしか実現しない。それゆえ、理念=現実という、さきの規定は、即座に哲学的認識のうちに限界づけられているのである。要するに、言葉は現実であるが、しかし、その現実は、哲学者の認識の内部で実現する、というのである。
この限界規定は、一見慎ましいが、最悪である。本来的に力である言葉を、ひるがえって「認識の産物でしかない」と主張することで、彼は自分の言葉についての責任をすべてうやむやにしているのである。つまり、この限界規定は、かえって、言葉を哲学者の手から離れさせ、力がほしいままに機能することを許すのである。むしろ、ここは、ニーチェのように、「権力への意志」をいうのが正しい。ひとは、自身の言葉が、「権力」に生成することを、意志せねばならない。つまり、政治家や学者は、自身の言葉が、現実に作用するということ、この奇妙なプラグマティズムを承認せねばならない。わたしのいうことは真理ではなく、たんなる表現や真理へ向かう努力の過程にすぎない、などというなら、それは誤りである。政治家や学者であるかぎり、言葉は、かならず現実に機能するからである。
戦前の日本の真の文学者は、誰一人として、自分の作品が虚構だとはいわなかった。みな、真理だと言った。その点で、彼らは、みな、ニーチェのいう「権力への意志」を有している。しかし、「わたしの作品は虚構にすぎない」と作家が言ったとすれば、それは、「マンガ」や「戯作」であるか、さもなければ自身の言葉が真理/権力に転成しているにもかかわらず、その責任を放棄しているだけである。
表現の自由という言葉は、恐ろしい言葉であるし、そうであるからこそ、この壮絶さにおいて、認められねばならない。所詮表現にすぎないのだから、自由でよい、というのではまったくない。そうした思考は、結局は、ヘーゲル的な観念論が機能することを許してしまう。むしろ、言葉は、現実に機能する、そのことにおいてこそ、この自由が認められねばならないのである。言葉は、ひとを死に至らしめる。それは、剣や爆弾が機能するよりも、もっと恐ろしい、無慈悲なやりかたで機能する。すなわち、言葉は、それを聞いた人間が、自らそれを機能させるのであり、その点で、一見すると、きわめて自殺的な死にひとを追い込むのである。わたしはなにも言っていない、というか、表現しただけだ――これが、ファシズムの言語論である。
表現は自由だが、にもかかわらず、なにを言ってもいいわけではない、という観点は、ここにおいて成立する。真の文学者の言葉が、ひとを感動させるのは、言葉が、現実に機能することを知っているからであり、また、自らそれを意思しているからである。けっして、虚構を拵えあげるからではない。言葉は、美しくなければならない。。――つまり、言葉は力である。権力者は往々にしていう、言葉は無力である、と。だが、わたしは、それは、権力者の罠だと思う。それによって、権力者は、自身の力を否定すると同時に、権力をもたない者から、彼がもっている唯一の武器も奪ってしまうのだ。わたしは言葉によって、本当に戦う。武器を持って戦うのと、同じ力強さで。剣を磨き、研ぎ澄ますように、おのれの言葉を磨くことによって。真理という剣を、磨くのだ。だから、わたしには、現実の武器は必要はないが、それは、暴力をたんに否定するのとは違う。
未来の文学者たちよ、ともに戦おう。言語の腐敗に抵抗しよう。……
【註】
- (1) 「理性的なものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」(『法の哲学』)