言葉の重み

criticism
2008.02.20

言葉は、リプレゼンテーションではない。その証拠に、言葉には、軽さがあり、そして重みがある。しかし、今日、ひとびとが語る言葉のこの軽さは、本当の意味での軽さでは、けっしてない。たんに、言葉には重みがあるということを忘れているだけである。彼らは、外部に向けて言葉を発しながら、言葉は、テクストは、けっして外部にはたどりつかないという。要するに、言葉を語る自分が鏡に映っているのを見ているだけなのである。

言葉を軽やかに用いること。それは、言葉の重さを忘れることであってはならないはずである。この二重の誤解が、わたしたちの世界を縮め、革命を遠いものにしているのに、まだ気づかないのか。重たい言葉は、中心に引き寄せられ、ナショナリズムを形成する。たんに、言葉を軽々しくあつかうこと、これもまた、無意識のナショナリズムを澱のように蓄積させる。言葉を軽やかに用いること、これだけが、ナショナリズムを飛び越え、本質的にコスモポリタンな歌を生み出す。言葉には重さなどないのだ、という批判は、ふやけた、高貴さなどかけらもない、ナショナリズムを生み出す。重さをもった言葉に対して、言葉には重さなどない、と語ることは、批判でもなんでもない。ただの逃避である。

まるで、言葉を重さのない空気のように、あつかう――こちらのほうが、より比喩的な表現である。言葉には重さがある――ここには、比喩性はまったくない。歌を歌うのは、人間だけではない。メシアンが言っていたように、歌を発明したのは、人間ではなく、鳥である。歌に歌を重ねること――一種の連歌こそが、動物であるひとの、本当の生の形式なのである。

音楽は、自然の側にこそある。ひとが雑音だと思っているものこそ、意味論的な、音楽ならざる音なのである。これはヴァイオリンの音だ、これはバイクのエンジンの音だ、だから、前者は音楽であり、後者は雑音である――こうした区別は、文化的かつ認識論的なものであり、そうして抽出された前者は、本当の音楽にはならない。意識して耳を澄ますときにのみ、音楽が発生するという風に思える。だから、ひとは誤解する。音楽は、人間がつくりだすものだと。だが、そうではない――人間の耳が、音楽を拵えるのではない。自然の声を聴くために耳を澄ますひとだけが、音楽を感じることができるのである。

すでに、わたしたちの外部で、音楽は鳴り響いているのだ。日本において、音楽家でもあり、画家でもあった《文学》者だけが、そのことを知っていたのに、ひとびとは、彼らを、押しつぶしてしまった。いまや、言葉を軽々しく用いるひとたちだけがいる。政治家も、批評家も、おたがいに批判しあいながら、じつは、言葉には重さなどない、という点では、一致しており、裏で手を握り合っているのである。彼らは、いうだろう。言葉は、現実ではない、と。言葉は、実在ではない、と。言葉は不完全である、と。言葉はすべて、虚構である、と。重要なのは、言葉ではなく、実践ではないか、と。

だが、言葉は、実在である。言葉は美であり、そして真理であり、そして力である。言葉は、世界が存在するのと同じ確かさで、存在している。言葉は、つねに‐すでに実践なのである。自然は自分が完全であるとか不完全であるとか考えないように、言葉もまた、完全さとは関係がない。そのことを知っているひとたちだけが、アナーキストであり、そして芸術家であり、そして鳥である。芸術家は、真に鳥である芸術家は、いったいどこへ?

HAVE YOUR SAY

_