言葉を占拠せよ

criticism
2012.02.26

ある作家がこんなことをいっていたそうだ。「言葉というものには、それに仕えてきた者をいつ見捨てるかわからないところがある」……。しかし、もしそのようなことがあったら、この作家は作家生命を絶たれているはずである。これを批評家は「認識」ともてはやす。だが本来は、作家が軽々しくいえる言葉ではない。

たとえば画家ならどうか。「色彩は、それに仕えてきた者をいつ見捨てるかわからないところがある」……。そんな画家はおしまいだ。原発の専門家ならどうか。「原発は、それに仕えてきた者を……云々」。当然、この物理学者もおしまいだ。しかしなぜか作家なら、素晴らしい「認識」として受け容れられてしまう。

この手の暢気さ、しかし世間一般には高尚なものと受け容れられる「認識」が、現代文学を緩んだものに、要するに事が起こったあとの慰みにかえる。この原因は、今日のすべての知が「批評」から出発していることにある。予言は禁じられ、ただ事後の慰めが言葉の仕事だと考えられている。

この作家は、おそらく言葉に仕えてなどいない。なぜなら、言葉はつねに、語り手を見捨てているからである。いいかたをかえれば、言葉は語り手の自意識とはそも無関係なのだ。言葉が対象とそっくりそのまま同じものを表象することはありえない。したがって、見捨てることが常態であって、だから本当に言葉に仕えているのなら、見捨てられることは問題にならない。むしろ問題は捕まえることである。

昨今、あの日の震災、原発事故を語ることが、文学の仕事とみなす風潮がある。そのことで、文学はますますあの事件を過去のものにすることに寄与しているらしいのだが、ほんとうは、むしろ言葉を事後のものにしているのである。しかし、いま必要とされている知は事後の慰めでも事件の批評でもない。言葉を事件にし、新しい世界をもたらすことである。

本来のあるべき知は、現実を振り返るものでもなければ追いかけるものでもない。現実に先んじるべきものである。近代であろうと前近代であろうと、ずっとかわらずそうだったのだ。神託が、占星術がそうだったように、科学もまたそうだったのである。同じく、文学はたえず政治を追い越すべく努めていた。

しかしいまでは、文学はおろか科学までもが、ひたすら過去の分析に終始し、過去を振り返る慰めに精を出している。知はますます現実の奴隷となり、知は現実を変える力を失っていく。

あろうことか作家が「言葉に見捨てられる」と語る。それは、作家自身の生の否定である。しかし、その言葉がやすやすと世間にまかりとおり、作家自身がのうのうと作家の位置に居坐っている。こうした似非哲学があって、しかも奇怪にも現実に機能していることを否定はしないが、本来の文学とは何の関係もない。

いまこの国でいっぱしの思想家として振る舞おうと思えば、まず批評から出発しなければならない。これが奇怪な転倒であると感じる人間は、どうやっても思想家にはなれない。創造を事とする芸術家でさえ、批評にあまりにも塗れてしまった。いったい、現実を変える力はどこから生まれてくるのだろうか。

予言の力は、言葉通りの意味では拒絶されるべきだが、しかし言葉には、現実をつくりかえる不思議な作用がある。このことは紛れもない事実として、歴史のうちにたしかに見いだされる。たとえば世界に鬼を見出す似非詩人である陰陽師は、いったいなにをしているのだろうか? 彼らはいかにして権力の中枢を占めるにいたったのか? 言葉が現実を正確に表象しているか否かは、ほとんど問題にならない。アリストテレスは、なぜ、詩人は「これから起こることを語る」と言ったのか。そのことをいま一度考えねばならない。

われわれはたしかに現実に翻弄されている。だが、注意深く歴史を紐解くなら、現実のかなりの部分が、言葉によって作られていることに気づく。すなわちわれわれは、現実に翻弄されるばかりでなく、言葉によって現実をつくることさえしている。政治と競うべき詩人が、この後者の領分を占めるのをはなから放棄しているのは、いったいなぜなのか。

過去の分析に終始する科学。現実から翻って過去に慰めを見いだす文学。これらは一見そうみえても、真の知とはなんの関係もない。言説がいかに現実に回収されようと、真の言葉はかならず未来になんらかの現実を作りあげる。これこそ真の知であり哲学であることに、ひとはいつ気づくのか。

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