わたしたちが普段何気なく、そして区別しつつ用いている言葉に「想像力」と「記憶力」とがある。いずれにしても、不在のものの現前という意味では同じものであろう。いまここにないものを現前させる、そうした力こそが、この二つに割り当てられた力である。とはいえ、もちろん、これらは次の点で区別される。アリストテレスが、あるいは最近ポール・リクールがしたように、記憶力が「過去」に生じた何らかの痕跡に結びついているのだとすれば、想像力は、過去とは関係がない、という点によってである。
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わたしたちは、この点で、想像力と記憶力を厳格に区別している。それは、過去のどこかで実際に起こった出来事を扱う歴史学と、実際には起こっていない物語を描こうとする文学との違いに等しい。とはいえ、わたしは、こうした区別が必要であるとは考えていない。おそらく、それは外在的な区別に過ぎないし、同じものが状況に応じて繰り広げるヴァリエーションにすぎない。そして、こうした区別こそが、プラトン以上にプラトン的な近代人が必要としている重大な区別なのである。「記憶」、「忘却」、そして「想像力」について行なったリクールの考察に一定の敬意を示すべきだろうが、しかし、基本的に、そうした三位一体について、さっさと同じものであることを認めてしまってはどうかと考える。リクールがたどり着いた結論、そこからわたしたちは出発すべきなのだ。さらに付記しておくなら、「記憶力」「忘却力」「想像力」という三位一体について、古代ギリシアの哲学者が、近代と同じやり方で分節を行なっていたとも思われず、彼の解釈学的な考察にはつねに留保がつかざるをえない。フーコーなら言うかもしれない、彼には《考古学》的な考察が欠けている、と。むしろ、ギリシア人が、それらの《力》について行なった分節の仕方にこそ、彼らの思考の特異性が現われていると考えねばならない。プラトンやアリストテレスをリクールのように読むのは、まずそうした分節のあり方をしっかり解明してからのことでなければならない。彼のようなやり方は、結局、もろもろの哲学の解釈の歴史――要するに哲学史を生むだけだ。
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さて、プラトンに対して一定の距離を保ち、また反対の態度をとることの多かったストア派のひとびとは、世界についての体系的な哲学のあり方を考察する際、三つの学的な区分を設けている。すなわち、言論、倫理、そして自然についての学である。ディオゲネス・ラエルティオスによると、彼らは、この区分を次のように喩えていたという。「彼らストア派の人たちは、哲学を一つの生きものになぞらえて、言論に関する学を骨や腱に、倫理学を肉がより多い部分に、そして自然学を魂に相当するものとしている。あるいはまた、卵になぞらえているが、この場合は、言論に関する学は殻に、倫理学は白身に、そして自然学は一番内部にある黄身に相当するとしている」(『ギリシア哲学者列伝』)。この比ゆにおいて注目せねばならないのは、もちろん、自然(ピュシス)の学をもっとも内部の魂の学としていることである。わたしたち近代人は、逆に次のように考えている。つまり、自然学はわたしたちの身体、あるいは環境といった、いわば外部に当たる客観的な対象をもった学問であり、むしろ、それと対置される倫理学や弁論を扱うような人文的な学こそ、内部的なものとされている、という点である。内部にある精神、外部にある肉体、という一対の組み合わせこそが、わたしたちの思考を形作る主要なあり方であり、こうした内なる魂と外なる肉体という組み合わせが、すべての学的な領域に適用されているのである。したがって、ストア派の思考は、それとは完全に反対なのだ。内なる魂こそ、もっとも自然なものであり、言論についての学や倫理学は、外的な実践行為なのだ。
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プラトンや、そこに描かれたソクラテスの哲学を字義通りに読むかぎり、彼らは、ストア派と好対照を描いているわけではない。エクリチュールに対する距離のとり方をみるかぎり、むしろ、ストア派的な思考と一致している点も少なくない。ストア派の人々、とくにクリュシッポスは、指輪の刻印(つまり文字)と、魂に刻まれた刻印であるところの《印象》とを厳格に区別し、後者に価値を置いている。プラトンが音声的な表象の方に価値を与えていた点を想起するなら、この点で彼らが共通しているのは明らかである。デリダが言うような、《プラトン以来の音声中心主義》が本当にあるのだとすれば、それはたしかに批判されねばならないが、それはプラトンがエクリチュールに与えていた狂気の可能性――これこそ形而上学的な非難にさらされるべきものである――に対する黙認となってはならないのである。
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したがって、わたしたちがギリシア時代のテクストを、今日の人間から見た《解釈》ではなく、当時実際に機能していたところの《言説》として読み解く際には、人間と世界の接続のあり方についての前提を根本的に変えなければならない。わたしたち近代人が人間の外側に広がっていると考えている《自然》は、ギリシア人にとっては、内なる魂なのだから。ストア派にせよ、プラトン派にせよ、彼らにとって、世界と接続しているのは、外皮ではない。むしろ、魂なのである。
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不在のものを現前(表象)させる想像力と記憶力の差はほとんどない。じつは同じもののヴァリエーションでしかない。いずれの力も、結局のところ、理性(ロゴス)を通して得られる表象である点で変わりはない。また、それらの表象は、感覚によって得られた通常の表象を、類似/対比/置換/合成などの対位法的な変換を通過させることで得たものである点でも同じである。たとえば、スフィンクスのような怪物の表象は、人間とライオンを合成することで得たものであるし、また「キケロ」というテクストから表象されるキケロの象は、今日生きているそれらしい人間の表象と類比あるいは置換することによって得られたものである(想像力といっても、まったくの無から想像された表象がありえないことはいうまでもない)。架空のモンスターであるキュクロプスやスフィンクスであろうが、あるいは歴史上に存在していたキケロやカエサルであろうが、それらが表象を得る際に、想像力を必要としていることに変わりはないのである。そして、このような表象の想像=変換が、もっぱら同じものの反復を要求される場合に、《忘却》の名で言い換えられる。したがって、じつは、忘却と想像力もまた、ほとんど同じものである。
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記憶力を想像力から峻別するために必要なものは、次のものである。すなわち、「同じもの」を再現前化することである。その場合にのみ、わたしたちは、それを想像力から区別される記憶力の名を適用できる。これは、きわめて困難だが、それを可能にするツールがある。エクリチュールである。エクリチュールは再現する、キケロの名を。ciceroの名を、そっくりそのまま再現する。しかしもちろん、そうした反復は、どのような知見も付け加えない。キケロはキケロである、というだけだからである。したがって、記憶力という近代的な地平は、じつはここにいたって放棄しなければならないことがわかる。「記憶」に含まれている反復の力は、むしろ、表象(ファンタシア)にかかわる想像力の方に属している。だが……