戦後の人文学をふりかえれば、どうしても拭えなかったのが文献学的傾向である。デリダの「テクストの外部はない」という言葉のもつ異常な重みが、われわれを捉えていたと思う。存在から出発しない。文献から——アルシエクリチュールの重みから、出発する。
その意味で、ひとは十分すぎるほど、つまり意識しないほどに、学問において歴史学的である——これほど歴史に無関心なのに。われわれの存在は、憲法の内部に、文献の内部に、情報の内部に、その他諸々のドキュメントの内部に、おさまっている。しかしそんなことがあるのだろうか。
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いまやひとは書物の読み方を学んで満足する。だが、自分はそんなことは教えていない。自分が教えているのは、この世界の歩き方である。書物に歩くことが先立つ。存在者は、大地に立ち、そして歩き、それから思うことを書き記す。本を読みたければ読むがいいが、歩くことのほうが優先される。
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ニーチェは足で思考せよと言っていた。実際、《足の思考》というものがあるのだ。そうでなければ、ひとの思考は文献——言葉から出られなくなってしまう。言葉はひとが思っているよりもずっと牢獄に似ている。われわれの行動を、牢獄よりもずっと隠微な形で、ある範囲の中に閉じ込めてしまうのだ。
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旅の尖端にすこしの言葉があればいい。そうした言葉は美しく輝いている。そうした言葉にふれて、われわれは、よし、旅をしよう、と思える。だが、おしゃべりなわれわれは、しゃべっている本人がもう、言葉に囚われそうになっている。言葉に埋もれ、やがて歩くことを忘れてしまう。
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ところで、《足の思考》とはなにか。それは、思考に場を与えよ、ということである。思考が場を持つ、とは、重力のなかで思考を使用せよ、ということであり、要するに思考それ自体が現実に存在する、ということである。情報の網の目をかいくぐる、思考の旅。
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