ものや出来事の起源を、あるいはそこにそれがありまたそれが起きることの必然性を、ひとはたどりたがる。このようなひとびとの思考は、かならずどこかで択一を強いる二つの選択肢にたどりつくだろう。すなわち、起源や必然性を可能にしているのは、言語的な《論理性》だろうか。それとも言語外の《因果性》だろうか。
たとえば、「塔の頂上から鉄球を落とせば、それは地面に落下する」という記述。それは言語外の事実と認定されている重力によって、そうなるべくしてなるのであって、ここに因果的必然性を見出すのが一般的な見解である。しかし、「フランスにおける全国三部会の紛糾がフランス革命を招いた」という記述の場合、そこに因果連鎖を見出す見解は、先の記述ほど一般的にはなりえない。「フランス」、「全国三部会」、「紛糾」、「フランス革命」などといった用語にひとびとが認めている《意味》にしたがって、論理的必然性をもつ場合もあれば、もたない場合もある。因果連鎖を見出せる場合もあれば、そうできない場合もある。さらに「16掛ける16は256である」という記述は、言語外の対象とは無関係な論理的記述であって、「16」、「掛ける」などの用語に与えている意味にしたがって、論理的必然性を持つ場合もあれば、もたない場合もある。ここに言語外の因果連鎖を排他的に認める見解は一般的ではない。
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誤解も生じるため、あまりこなれた言い方とは思えないが、わかりやすくいえば、ここには物理学と数学という二つの極がある。因果律という考えが、社会的に形成された約束事に強く寄生していることを発見したデイヴィッド・ヒュームの考察以来、論理と因果をめぐる議論はこの二つの極に分裂したままである。オースティンやクリプキのような言語学者、あるいはラッセルやデリダのような哲学者が論理的必然性の側でこの議論に答えを出したようにみえたが、この見解自体が社会的に形成された約束事に寄生してしまう以上、社会の変転にともないたえず曖昧化し、ふたたび論点が浮遊するのを禁じることはできない。両極のはざまで、歴史記述は、書き手の意図とはほぼ無関係に、此岸から彼岸へ、行ったり来たりを繰り返すばかりである。
ヒュームの重要性はあきらかである。しかし、われわれは、回答を論理的必然性(数学的記述からなる)と因果的必然性(物理学的記述からなる)の二つの極のいずれかに、あるいはよくいって両者の弁証法的曖昧さ(歴史学的記述からなる)のなかに強制する言語学者や哲学者の議論にはあまり興味をもたない。むしろこれらの極は開いたままにしておき、もっぱら中心軸にある歴史的・社会的必然性に興味を抱く。われわれはいかにして、言語の意味からなる論理的必然性と、言語外の事実の連鎖によって生じる因果的必然性とが描く螺旋のなかで、歴史を《運命》として受け取るのか。しょせんは人間の拵えたルールにすぎぬ論理的必然性のなかで言葉を気ままに弄びながら、当の論理に自然の因果律と同じほどに強い力を認め、人間はおのれを束縛する歴史や社会を形成しているのである。
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いうなれば、ひとは、おのれの自由にとって最大の敵である歴史に、言葉という最強の武器を供与しつづけているかのようだ。文学にせよ、哲学にせよ、歴史学にせよ、われわれが人文学と認めるのは、たまたま鳥のように音節明瞭だったにすぎない猿が拵えた《言葉》という気ままな遊戯を、具体的かつ肉体的に運用すること、すなわち《運命》にまで高めようとする試みだけである。論理、あるいは歴史の必然性は、自然の因果律と同じほどに、強力でなければならないし、実際に強力なのである。抵抗するにせよ、受け容れるにせよ、この運命の絶対的な力強さを知ることがないなら、われわれは《人間》を高めることができない。
論理や歴史は、われわれ人間から出発しているにもかかわらず、世界から自由に切ったり貼ったりできるものではないことはあきらかである。だが逆に、運命にまで高められなかった論理や歴史が、人間に言語外の生がありうるのではないかという錯覚を抱かせることになる。その意味では、論理や歴史は、そうした幻想(パンタズマ)を抱かせる元凶でもある。
むしろわれわれにできるのは、本当は、論理や歴史を捨て去ることではなく、これらを《運命》に高めることだけである。そうした論理や歴史は、これらが人間を超越しているにもかかわらず、これらと戦い、そして寄り添うことができる。つまりひとの生を超越し、従わせる運命との戦いや共存を通じて、ひとは超越と交わる自由をついに謳歌することができるのである。まったく不思議なことであるのだが。
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創作という概念を勘違いしている連中は、歴史上のifを探しまわる。そしてドゥルーズとガタリの《アレンジメント》の概念を誤用し、クリプキの可能世界論をみだりに拡張して、たとえばカエサルが殺害されなかった歴史がありうると考えることが、創造と思っている。だが、そうではない。奇妙にも、カエサルが殺害される以外の運命がありえないことを示すことが、本当の創作なのである。歴史上のifなど、意識的かそうでないかは別として、歴史学者はたえず大量生産している(ifを許す点で、ポパーのいう反証可能性をたえず有しているゆえ科学といえるのだろうが、この定義は科学的歴史学をけっして救いはしない)。ならば彼らもまた創造を司る芸術家なのか? 否であろう。そしてまたその程度のものが芸術なのか? 否であろう。仮にひとが過去を覗くことができたとすれば、現実の過去が歴史と違っているよりも、むしろ歴史どおりに事が運ぶことのほうに、神秘的な悦びを見出すだろうと、わたしには思われる。カエサルがブルータスの真横を何事もなく通り過ぎるよりも、ブルータスによって殺害されるカエサルが《息子よ》と叫んだとき、ひとは得も言われぬ芸術的な興奮を覚えるにちがいないのである。
試みに、人類史上最初の文学のひとつであるホメロスの『イリアス』をみてみよう。アキレウスは神に授けられたおのれの運命に抗う典型的な英雄である。そして運命に抗いながら、この運命を覆すことができない。そのことを、ホメロスは逆説的にもアキレウスが宿敵ヘクトルに勝利するシーンによって描き出す。アキレウスは運命に抗い、そうすることでますます運命に合流していく。アキレウスが戦死するシーンはいっさい描かれず、ただ彼の死は《運命》としてのみ描かれる。トロイとギリシアとのあいだで繰り広げられた十年にわたる戦争を、彼は《運命》に高めた。論理的必然性と因果的必然性という極端で陳腐な問いを、この作品はまったく受け付けない。世界の文学史は、こうして人文学のすべての可能性を孕む神のごとき作品を、のっけから有することになった。起源にすべてが含まれるというよく知られた逆説は、人類の自由な創造性の極みにある人文学には、よく当てはまっているようである。
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何気なくそこに置かれているオブジェ。そこにそれがあるという論理的必然性があるだろうか。歴史的因果律が感じられるだろうか。この世のすべてのものが、そうした超越的原理によって、そこに存在している。これらの原理を神に明け渡す前に、ひとは運命という名の糸をたぐり寄せるべきである。
自覚するにせよしないにせよ、もし歴史が言説・テクスト・史料のなかに収まってしまうものだとすれば、そういった歴史を対象にするのは科学であろう。それはひとの歴史が論理・言語のなかに収まってしまうことを意味する。まれにあらわれる言語外の因果性や《もの》がそれを疑うとすれば、そのことが、反証可能性として、歴史が科学たることを保証する。そうした反証可能性を、人文学は受け付けない。反証可能性をもつことが科学の定義というポパーが正しいなら、人文学は科学とはなんらかかわりをもたない。人文学は運命だけをあつかう。それ以外にはありえないという、かけがえのない運命を愛する。反証可能性のような緩んだ概念など問題にしない。歴史が運命に高められるときにだけ、あるいはそうした意志をもって取り組まれる場合にだけ、歴史はようやく人文学の対象となる。
ひとはどうしても、歴史や論理なしに生きていけると錯覚しがちである。歴史や論理が、言葉を伴ってしか現われないからである。言葉は、それが道具として磨かれていくプロセスのなかで、どうしても想定以外の結果を導くことがある。それはたんに書き換えられるべき想定にすぎないのだが、ひとはそれを《嘘》とみなす。言葉の失敗のほうを言葉の本質と捉えてしまうのである。こうして因果律はあやしいものとなる。論理はたかだか人間の拵えたルールにすぎないと考えられるようになる。そこから、言葉なしの世界こそ、真の世界という夢想が可能になるのだろう。しかしこれらの言葉が、《運命》として振る舞うならどうか。抗いえぬ《予言》としてわれわれの前に現われるならどうか。カント的な当為(義務)を越えて、《運命》としてわれわれの前にあらわれる言葉がありはしないか。
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言葉の響きを、虚構を可能にする精神の深みには至らぬ、身体のもっとも深いところ、皮膚のもっとも内側で聞くことができるかどうか。そうしてはじめて、人間は、歴史や論理を《運命》として感じ取ることができるようになる。英雄のように抗うのか。それとも帝王のように寄り添うのか。これらの問いがあらわれるのは、ずっと先のことである。論理や歴史が本来の姿であらわれるなら、それらは、われわれにとってもっとも深く激越な怒濤となる。幼児はそれを、自然と、そして自然にまで高められた芸術を通じて学ぶ。子どものころは把握するのが容易だった、論理的必然性と因果的必然性の描く螺旋の中心を見失うことがないなら、運命は、自由と同じほど深く愛することのできる姿で、われわれの前にも現れるはずである。わたしはそれを固く信じているのである。
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