選挙に行こう

criticism
2021.07.03

欲望を全面的に肯定する。かつて自由主義者と社会主義者とが世界を二分してやりあったような、社会的な対立もなければ、抑圧もない。だからひとは、身動きが取れないでいる。行動を促す動機がないのだ。あるのは、分厚い惰性の流れだけ。前そうだったから、今もそうだ、という代わり映えのしない世界。

だから、暗い、欲望の底にまで降りていかねばならない。欲望はなんら否定されるべきではない。欲望の解放を妨げる淫らなもの、それらがつぎからつぎへとまとわりついてくるこの世界にあって、どうやって欲望を解放するか。たとえば恋愛。恋愛を肯定する、ということが驚くべき可能性をもった、あの北村透谷のいた世界を、あらためて考えてみる、とか。

人文学者が、ふたたびこの世界に線を描くために、もっとも根源的な欲望の場所にまで降りていく。すべての既存の関係をふりはらって、孤独な場所で、尋ねてみる。あなたの欲望・自分の欲望は、なにを欲しているのか。自分はいったい、なにを求めて、この世界に命の線を描くのか。

シニカルなもので充満したこの世界。たぶんまた自民党的なものが勝利してしまうだろう。自民党と、“自民党的なもの”は異なる。ひとはべつに自民党を支持しているわけではないのだ。前そうだったから、今もそうだ、というだけで、だからこれからもそうなのだ。これが“自民党的なもの”だ。自民党の議員でさえ、大半はこれでいいとは思っていない。一部は憲法を変えたいと思っているだろうし、またべつの一部は金権政治をやめたいと思っているだろう。だが、流れは変わらない。なにもしない人間にとって、時計の針が刻む等間隔の流れはあまりに重く、朝7時に鳴る目覚まし時計に睡眠を中断させられるように、ただこの“自民党的なもの”の惰性にやむなくしたがっているだけなのだ。

なにも変わらないこの世界。ただただ惰性的なものが勝利する世界。より知的な大人になりたい。よりよい未来がみたい。若者の欲望を掘り起こすには、どうすればいいのか。

失政や卑劣を非難するばかりの、野党のやりかた。それだけでは、この惰性の分厚い流れは逆流しないし止まりもしない。若者の精神の底、さらに底にある暗い欲望の塊、ここに火を点けるには、つまりこの暗い欲望がじつは花であることを教えるには、どうすればいいのか。

この世界は美しく、また信じられる確かさで存在しているというのに、どうして人間はこうもシニカルなのか。世界はもっと美しくなりたがっているというのに、どうして人間はそれをあきらめるのか。

この時代に、「行動する」、というのは簡単なことではない。精神の底にある欲望を、何年もかけて大切に育てて、それでようやく、だ。自分は昔から、ぜんぜん行動力のない人間だったから、それがよくわかる。よほど欲望を大切にしないと、つまり欲望と論理を一致させられるくらいに論理が十分に欲望的なものになってからでないと、自分は身動き一つとれないような人間だった。今もそうだ。

選挙に行く。考えただけでも億劫だ。「部屋にいるのは憂鬱で、出掛けるあてもみつからぬ。……」。暗黒物質のように色彩を吸収してしまう、暗い欲望の塊。

他人を変えるのはあきらめよう。他人ではなく、自分を変えなければ、この世界は変わらない。もっと美しくなりたがっている世界のために、自分を変える。行動できない自分を、変える。どんな理由でもいいから、外を歩く。たまには外を。

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