鈴木清順『ツィゴイネルワイゼン』

cinema
2003.06.01

1980年代日本映画の金字塔。作品の叩き台となった「サラサーテの盤」の原作者である内田百?は、ある特異な系譜に位置する作家である。とはいえ、作品のクレジットに原作「サラサーテの盤」と書かれているが、たんにそれだけが題材になっているのではない。「東京日記」や「花火」など、さまざまな百?作品の映画的モンタージュによって、百?以上に百?らしい、俗埃を残しつつも幽邃を失わない百?的美学が見事に結実している。

中世の武士たちにとって、鎌倉への入り口である「切通し」は、この作品において現世と冥界をつなぐ門である。実質的語り手である青地(藤田敏八)は、そこを行き来することで、まさに生と死を往復する。彼は、死んだ友人、中砂(原田芳雄)の家で、未亡人となった小稲(大谷直子)とともに、屋根を打つ小石の音を聞くだろう。だがそれは、小石ではなく、節分の際、蓬莱橋から撒かれた豆が屋根を打つ音なのである。その時間的ねじれは、青地の義妹が語るごとく、彼が、夢を見ていたために、もっと言えば、「切通し」を往復するうちに死んだ中砂と生きている青地の境界に齟齬が生じたためにできた。あらゆる感覚を失い死を目前にしながら蠱惑を失わない義妹は、見舞いに来た青地にこう語る。「夢を見ているのはわたしかしら?」 女と二人の男からなる三人の門付けの奇妙な三角関係は、青地―中砂―小稲の関係とパラレルである。中砂は、三人の門付けの末路について、こう語っていた。男たちは殺し合い砂の中に埋もれ、女は海に流されてしまった、と。一方、小稲はこう語る、三人とも仲良く結婚した、と。二つの意見はどちらも正しい(そしてまたその意見の食い違いも示唆的である)。中砂を殺した――夢の中で(?)――のは、紛れもなく青地だが、青地は妻も未亡人小稲も得ることなく、冥界に渡る。おそらく、彼らは三人とも盲目のうちに冥界に渡ったのである。

この世界を味わい尽くすことは簡単ではないが、いま少し、想起すべきことがある。これが映画だということである。つまり、ここで時―空間芸術としての映画的なものが監督のタクトに混乱する思考の片隅から抽出されてよい。さまざまな百?の作品を時間的ねじれにおいてひとつの曼荼羅に描き上げる、という荒業を可能にしたのは、紛れもなく映画的モンタージュそのものであり――カットごとに役者の立ち位置を変えていることは時―空間のねじれを表現している――、また、映画館の狭い入り口――まさに「切通し」のような――をくぐり、そしてスクリーンに映る映写機から投影された――この作品のうちに、多くの鏡が使われていたことを覚えているはずだ――絢爛たる映像を眼に焼き付ける――というよりは、瞳を舐める女の舌のような映像美を直覚する――という行為をもってはじめて、現世と冥界を行き交う『ツィゴイネルワイゼン』の世界は完成する。

  • [amazon asin=”B000JFY0PM” /]

    監督:鈴木清順
    原作:内田百?「サラサーテの盤」
    脚本:田中陽造
    撮影:永塚一栄
    美術:木村威夫、多田佳人
    音楽:河内紀
    スチール:荒木経惟
    出演:原田芳雄、大谷直子、藤田敏八、大楠道代、麿赤児、樹木希林
    1980年/日本/144分/カラー/スタンダード

HAVE YOUR SAY

_