前近代において、隠す/露わにする、という行為は、宗教的・司法的にきわめて重要な意味をもった。隠れ・忍び・忌み・篭ることは、神的なものの付着を意味し、晒すことでそれは発揮され、失われた。「権利」なる近代的概念を前近代にそのまま適用できることはないにせよ、あえて用いるなら、前近代における権利というべきもの、それはもっぱら「隠れること」にある。
罪人や債務奴隷が与えられる罰とは、隠れる権利の剥奪、すなわち晒されることであり、苦痛とともに、その肌に直接その証を刻み込まれることである。もちろん、それでも多くは世を忍び、隠れて生きることを許された。それが、前近代における最低限の「人権」だったといっていい。よくいわれる「アジール」とは、世俗から隠れることそれ自体でもある。
貴顕は庶民よりも隠れる権利を多くもった。化粧によって表情を隠し、扇によって顔を隠し、そして身体は御簾の向こうに、移動中は牛車のなかに隠した。そうして隠すことで殿上にのぼり、いざ登場する(あらわれる)ときには絶大な効果を発揮する。それが文字通りの「力」となった。
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近代はこの観点が一変する。近代において、国家権力にまつわる多くの記録が公開を原則としていることについて、法制史的にではなく歴史的に説明するなら、こうした隠す/露わにするプロセスによって生じる権力的な効果を否定するためである。また他人がある個人を晒すことも否定される。同権の近代社会において、そうした非対称は簡単には許されないからだ。
隠す/露わにすることで生じる効果は繊細なものだ。その行使も、その効果もすべて個人の所有物となる。隠すこと・露わにすることは個人の意志でなされねばならないし、またその効果が過剰に他者に干渉することも忌避される。少なく隠す側より多く隠す側に権力が発生するため、非対称も忌避される。
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僕らの司法も、僕らの性愛も、そして僕らが信奉する神的なものでさえ、こうした隠す/露わにする、というひとつづきの効果、イメージによって生じる。本居宣長・平田篤胤の国学がもつ古代性、また同時に近代性は、こうした幽冥(かくりよ)/顕明(あらわに)についての深い洞察から生じている、といっていい。
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サルトルは、自由や実存は、見る/見られるの闘争のなかにある、といった。見ているのか、それとも見られているのか。この闘争は、とても繊細なものだ。僕らがマスクに感じる違和感も、権力/コミュニケーションのゲームにおいて、隠す側が圧倒的に優位に立つということ、したがって、近代の原則にしたがって、あけすけに、隠れなき姿として自身を表現しようとしても、晒す側が弱い立場に置かれてしまうことにある。ノーマスクの側が、一方的に見られることになるからだ。一方が隠す以上、均衡を求めるなら、双方ともに隠さざるを得なくなってしまう。
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ノーマスク側が原理的に「警察」になることがありえないのは、ノーマスク側は万人に顔を晒されているからである。顔を隠すマスク側は、個人を特定される不安とは無縁であり、したがってマスク側にはたえず権力が発生している。これはけっして近代的な状況とはいえない。
若者や子供たちが教室でマスクを外すのは勇気がいる。見る/見られるという、社会同様、教室でも生じている実存の闘争において、ノーマスク側は敗北が運命づけられているからだ。だからウイルスと無関係に、子供は全員がマスクをする、という判断をとるところに追い込まれていく。「警察」はそこに付け入る。
こうした近代的感覚の希薄さが、昨今の知識人にも、メディアにもある。顔を隠すマスクについての、知識人の無頓着さ。他人の秘密を勝手に晒す非対称的権力をふるってなにも感じないメディア。「命大事」は別に近代性とは関係なく重要だし否定しえないが、だからといって、それで近代性を放棄することに躊躇はなかったのか。
芸能人であれ、権力者であれ、すなわち人目に晒されることを条件とする仕事をする者でさえ、最低限の「隠す」権利は誰にでもなければならず、また、隠す/露わにするという繊細な人間的行動について少しでも配慮があれば、顔を隠すマスクが人間社会に・人間精神に深く作用する、きわめて微妙で危ういものであることも、わかっていなければならない。
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「暴く」メディアの無頓着さも、子供に三年半「マスク」で過ごさせることに違和感を覚えない知識人の無頓着さも、根っこは同じだ。近代なるものに視線が行き届いていない。ぼくはそのことをひどく残念に思っている。
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