なんとなく、病気をすると、バッハを聴きたくなったりする。昔から音楽にすがってきた自分にとって、死ぬ時に聴く曲くらいは選びたいと思う。もちろん、死ぬというのは大げさだが、病気で肉体的に衰弱すると、ベタに「マタイ受難曲」などがよく胸に響く。崇高の概念は、こういうとき――つまり肉体的衰弱が理性を増大化させているいまでないと、《感じる》のは困難だ。
今週の講義では、鼻声で申し訳ないと思いつつ、最後に、石川啄木の「ココアのひと匙」と佐藤春夫の「愚者の死」を朗読する。詩としてはナイーヴなものだが、これらのもつ歴史的な感覚は、やはり大事にしなければならない。いや、リズムというべきか。生徒たちには、歴史を音楽として学んでほしい。言葉には、《意味》が隠されているのではなく、リズムがある。それは、声に出して歌うことで、ようやく見えてくるものであって、紙と文字とが織りなすコントラスト――それはカントの理性‐悟性の外在化なのだが――にはない、《色彩》である。歴史はなにも隠していない。歴史と音楽の関係は、思いのほか深い。
教育もまた、音楽に近いものなのかもしれない。というのも、学生とは、楽器だろうからだ。桃色のオーボエ、瑠璃色のバイオリン、緑の歌手たち。自分が楽器であると自覚している学生こそ、よき生徒だ(演奏家だと自覚している教師こそ、よき先生だ)。演奏するのがわたしだとして、実際によき音色を奏でるのは、楽器である生徒だろう。むろん、その観点からすると、自分ひとり歌を口ずさんでいるかぎり、まだまだ未熟。妖精たちに響く歌声のありかは、誰も知らない。そんな歌声を探している。
さて、ここに書かれた諸々の文章の表題となっている“イクシーニュ(Ex-Signe)”という言葉は、造語である。記号そのものが、観念ではなく、世界そのものにおいて/として露呈しているような、そういうやや淫猥な意味を込めた。記号であると《同時に》、出来事である、そういうような言葉である。今にして思えば、かつて浅田彰が「記号論を超えて」というサブタイトルのついた本を書いたが、それに対する下手な諧謔を込めた応答とも取れるだろう。しかし、完全な造語か、というと、そういうわけでもなかった。ラテン語にexsignoという語がある。「記録する」とか「書き付ける」とかいう単純な、リテラルな意味の動詞である。それのアレンジ、という風にも取れる。いずれにしても、この言葉には、実体をもったイデア、すなわち、音楽が感じられる。その点が気に入っている。
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hardcorepeace
2009年12月4日(金) at 9:18:41私こそ、あなたの言葉の音楽的な響きに、多少の嫉妬をしながらも(笑)、いつも勇気づけられてきました。
いかに、歴史を音楽にするのか。その通りだと思います。私にも言わせてもらえば、文字だけの世界から、過去の人びとが感じていた味覚、匂い、感情、雰囲気、リズム、音・・・それらを聴取し、また、現在や未来の人たちに聴かせていく・・・そんな難しさと愉悦を感じています。
それにしても、やっぱりバッハはいいですね。美しい。
Kio TANAKA said
2009年12月12日(土) at 19:52:21 [E-MAIL]コメントありがとうございます。
これから、歴史家という概念は死滅するでしょう。アーキヴィストがそれに取って代わる。やむをえないことと思いつつも、一方でそれは歴史という病に犯された近代の行き着く先だとも思います。ぼくは歴史家に同情します。しかし、未来はもっと遠いところにある。むずかしいところです。
不滅におもえるバッハさえ、いつかは消える。パルテノン神殿も、消えるプロセスのなかにある。アーキヴィストの仕事はここにあります。このプロセスを遅らせ、あわよくばプロセスそのものを止めてしまうこと。彼らはある仕方で時間を超越する。不滅の世界を夢想させる……。
そのことは否定しません。しかしわれわれはもっと別の超え方をしなくてはならない……。
とりとめないですね。