マイケル・ジャクソンが死んだとき、書こうと思っていたことがある。それをずっと書かないでいた。なぜだろう? たぶん、世間が大騒ぎして書く気が失せたのだ。そして忘れていた。だが、ふと思い出した。アメリカ合衆国とは《何だった》かと考えたからだ。この特異な国家について考えるとき、この黒人のアイドル、世界史上あまり類例のないスターのことを思い出す。たかがアイドルといえばそれまでだが、彼には明確な思想がある。そろそろひとが忘れる頃だから、ここに書いておくのもいいだろう。
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マイケル・ジャクソンは鏡に映った自分をみて、世界をよりよく変えることができると信じた。彼の目にはこう映っていた。世の中に問題があるのは、きっと大人が難しく考えすぎているからじゃない? もっとシンプルに考えればいいんだよ……。この単純さを志向する風変わりな思想と、彼の過剰な整形は切り離すことができない。
彼は兄弟のなかで、鼻が大きいといじめられていた。そうさ、ぼくの鼻は大きいといわれたけど、ほら、鼻は小さくなった。大人びて見えるからと、ほら、顎も割ったよ。歌謡界で特異な位置を占めてはいても、けっして中央には出ることがなかった黒人たち。そうさ、ぼくもクロンボと言われたけど、ほら、ぼくの肌は白くなったよ(1)。彼は鏡をみて、こう考える。この鏡に映っているぼく、これが世界だ。マイケル・ジャクソンのコギト。みんな、自分の姿を鏡でみてみよう。それが世界だ。ぼくらは世界だ。衣装を変え、ポーズをとり、表情を作る。そんな風に、世界だって変えられる。かっこ悪いと思うなら、変えればいい。こんな風にシンプルに考えれば、世の中をよりよく変えることができるんだよ。戦争や飢餓だってなくすことができる。大人は複雑に考え過ぎなんじゃないかな……。
ここは、こうした思想が実現可能なものかを考える場所ではない。たんに彼の思想を取り出そうとしている。だからといって、それをあまりに理想主義的な、ロマンティックなものだと考える必要もない。あの不自然な顔が、ロマンティックなもの、理想的なものだと考えるのは困難である。彼が得た子供のような純粋さ、単純さの代償が、過剰な整形で崩れたあの顔貌である。黒人が真にピュアでいたいなら素顔を捨てなければならない。鏡に映っていた人工的なあの顔、精神の美しさの代償に得たあの顔、それこそ、20世紀のアメリカ社会そのものだったのではないだろうか。鏡に映る彼の歪んだ顔は、自由主義国家アメリカが覆い隠していた裏側である。あの顔の奇怪さを前にして、「顔」の特権性を語る他者論は太刀打ちできるだろうか? 彼はもはや「顔」を、つまり他者の表徴を失っているというのに?
ソ連の崩壊後、社会主義の醜さを非難する声は顕著だ。それはたしかだが、アメリカを中心とする自由主義社会が、その醜さを覆い隠すために行った不自然の数々もまた、本当は非難されなければならない。自由のために素顔を捨て去らねばならなかったマイケル・ジャクソンの悲痛な叫びが聞こえないだろうか。
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犯罪のため、差別のため、あるいはひとの精神の醜さに耐えられなくなって、顔を変え、名を変えて生きていかねばならないひとたちがいる。彼らに「顔」や「固有名」などと言っても、「仮面」や「匿名」と言っても、本当は無駄なのだ。彼らは、もうとっくの昔にそんなものは失ってしまったからだ。本物の他者はどこにいるのか、もう一度問い直してみよう。
ひとは、顔を変え、名を変える自由をもっている。それは、顔や名が、精神に対してたかだか表面にすぎないから自由に変えられるのではない。ひとは表面において生きているからこそ、それらがわけても自由な行為と言えるのだ。だから、先に「悲痛」だと言ったが、それは方便である。変化を愛したかのアイドルは、喜んで、顔を変えた。それこそが自由の本当の意味だから。
他者について、わたしならこう考える。かのアイドルの「顔」とは、まさに帝国アメリカの象徴でしかない。本当の彼は、つまりわれわれにとっての他者は、時折見せる笑顔や、叫びの際に鼻に皺寄せる独特の表情のなかにこそ、明滅しているのだ、と。彼の整形された顔は、だんだん若き日に演じたピエロのような笑顔になっていくように、わたしには思えた。おそらく彼は、「顔」でさえ、《表情》に変えようとしていたのではないか。そんな風に、わたしは思っていた。
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20世紀の批評家は文学に固有名や顔を見つけられなかった。当然である。文学は、固有名ではなく、呼びかけに応じて変わる名前――つまり無名を、顔ではなく、刻一刻と変わる表情を求めてきたからだ。名前を変えても、彼は彼だ。顔を切り刻んでも、変化する表情は失われない。無名性や表情にこそ、他者は存在している。固有名を確定記述に変える実証主義のほうが、かえって他者に出会うこともあるし、もちろんその逆もあるだろう。固有名や顔は、この際、そこまで重要な問題ではない。固有名から確定記述へ、確定記述から固有名へ、その移行の瞬間にこぼれ落ち、低く煌めく言葉、つまり無名性や表情にこそ、他者がいる。
シンプルに考えよう。彼女が笑っているとしたら――たとえその内面に悲しみを隠していても――きっとそのときの彼女は幸せだったのだ。彼女が愛していると言ったなら――そのときは本当にぼくのことを愛しているのだろう。世界は本当は、ひとが思っているよりもずっとシンプルだ。文学は、ひとの心が抱いてしまう現実とのズレ、つまり内面を表象(表情)のうちに消し去る運動である。それを《表現》という。小説のなかの言葉、紙に書かれた言葉、それを内面と外面とに区別する質的な差異はどこにもない。そこに書かれているものがすべてで、小説はなにも隠していない。文学は素顔とも内面とも関係がない。
世界はシンプルだ。単純な強さがある。誰かが助けを求めていたら――その言葉の意味など考えている暇はない。そんなことをする必要もない。たんに助けてあげればいいだけのことだ。救いを求める動物の言葉でさえ、ひとは理解できるのに、同胞の言葉に反応しないわけにはいかないではないか。自分でできなければ、ほかの誰かに声をかけたらいい。助けてくれと言う勇気もときには必要だ。いまこの瞬間にも、そうやって世界史は成立している。
【註】
- (1) 読者から、肌が白くなったのは病気がきっかけという指摘、彼の整形を醜いというべきでないという指摘、彼の整形は事故がきっかけという指摘、さらに、彼はアイドルでなくアーティストという指摘、その他さまざまな指摘をいただいた。
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