今年の夏は暑かった。壁のように暑かった。10月でも、まだ夏か、というような気温がつづいている。温暖化、というわけだが、自分は自然と戦おうとは思わない。仮にこの温暖化を人間がもたらしていることを認めたとしても、この人間は《 […]
弱者と苦しむ者について。「強者こそ守れ」と言ったニーチェの言葉は、高校のときに触れて以来、ずっと僕の心に残っている言葉だ。自分にわからない言葉があったら、それは幸運だ。問いの形で心に残しておくことができる。ずっと——つま […]
さて、夏休みが終わり、後期が始まる。忙しくなる前に思考しておこう。ジャン・ジャック・ルソーの社会契約論はリスボン大地震が大きなきっかけになっている。ヴォルテールの悲観主義に対して、ライプニッツの楽天主義を維持したルソーの […]
さて、結果には原因がある。この反省好きの人間のする遡行にもとづく必然性は、それほど正しいわけではない。両者の結びつきは、かなり曖昧なので、それについての批判は、科学であれ、人文学であれ、たえず必要だ。この批判、すなわち時 […]
ウクライナの情勢が大きく変化している。ローマ帝国に雇われた蛮族の傭兵がローマに攻め上る、という歴史はあったが、それを彷彿とさせる出来事ではある。しかし、そうした歴史の表皮を一枚めくると、やはり人間がいて、そこに安易な過去 […]
前近代において、隠す/露わにする、という行為は、宗教的・司法的にきわめて重要な意味をもった。隠れ・忍び・忌み・篭ることは、神的なものの付着を意味し、晒すことでそれは発揮され、失われた。「権利」なる近代的概念を前近代にその […]
自分は歴史を現在がこうあることの説明に用いようと思ったことは一度もない。通りすがりにしたこともあるだろうが、そこは目的ではなかった。つまり歴史は現在の《手段》ないし《原因》ではない。 歴史家が、その当然の権利で、歴史のみ […]
美容院に行った帰りに、今日が宵山だったことを思い出して、祇園祭をすこし覗く。すごい熱気、人、人、人。 御池から烏丸通を四条通に向かって歩くと、交差点が人だかりでとんでもないことになっている。疫病以来、こういうことを経験し […]
歴史とは、人間が自由に至る物語である。その点で、進歩の風を信じなければならない、ということでもある。われわれの世界は行きつ戻りつしながらも、とにかく前に進んでいる、ということがないなら、歴史という概念それ自身が失効してし […]
夢を見た。坂本龍一がぼくと手をつないでいる。彼は音楽のことを教えてくれる。ここはこう動く。あそこはこう動く。和声や対位法のレヴェルだけではなく、音そのものについても、いろいろ教えてくれる。だけどぼくは胸がいっぱいになって […]
さて、太陽のそそぐ灼熱が地上を分厚く覆っている。そんななか、選挙が近づいて、どこかの保守政治家が同性愛者について「人口生産論」的観点からなにか言っているようだが、まちがっているというほかない。同性愛も異性愛も、「愛」とい […]
さて、梅雨が早々に明けてしまい、一挙に真夏といっていい空がひろがっている。35度を超えているという。もうずいぶん暑いが、これからまだ気温は上がるだろう。 世の中を言葉で変えられるなら、なんだってしようと思っている。だが、 […]
さて、なかなか社会が好転しない。自分が戦える時間もあまりなく、焦りが募る。 歴史家として、人文学者として、われながら悩み多き日々を送っていると思う。日本の歴史教育は右も左もなく、たんに水準が下がり続けている。たとえば明治 […]
夢を現実に、といえば、それは許される可能性のある表現である。しかし、虚構を歴史にといえば、それは多くの場合に許されない表現になっている。たとえば天皇は神だといえば、それは虚構を事実かのように語ることであり、許されないこと […]
現代の教師が苦悩しているのはまちがいない。責任の重い仕事であり、その重さのわりに社会的な敬意もなければ権利もない。前の世代の大人から、次の世代の子供から、もう四方八方から、社会の板挟みにあっている。 もとからわかりきって […]
さて、侮辱罪が改正され厳罰化された。匿名での誹謗中傷が問題になっているこのネット社会、刑法がそこに向かう必然性はわかる。 しかし、昨今の日本人は、どれほど金利を下げても借金しない国民であり、またいかにウイルスの勢いが減退 […]
さて、『存在の歴史学』という矢を未来に放ったあと、手持ちの矢がなくなって、呆けている。また矢を作るところから始めなければならない。十年くらいしたら、また矢が撃てるだろうか。 このところ孤独になじみすぎて、言葉がうまく出て […]
自分は知性をためらうこと・思いとどまらせることに使用しない。一歩踏み出すために使用する。対話不能の恐ろしい狼がいるとしよう。自分なら、彼になお語りかけることに、知性を使用する。対話を思い止まらせるのは簡単だ。人間の不安を […]
《存在》とは、ひとつの「狂気」(フーコー)であり、あるいはひとつの「機械」(ドゥルーズ&ガタリ)である。反対にいえば、「狂気」とは《存在》のことであり、あるいは「機械」とは、《存在》のことである。『存在の歴史学』を書いて […]
戦後の人文学をふりかえれば、どうしても拭えなかったのが文献学的傾向である。デリダの「テクストの外部はない」という言葉のもつ異常な重みが、われわれを捉えていたと思う。存在から出発しない。文献から——アルシエクリチュールの重 […]
思考は地図である。 思考は思いとどまることや、ためらうこと、迷うこと、惑溺することとはいっさい関係がない。思考とは、地図を描くことであって、つまりわれわれの歩みを勇気づけるものである。思い思いの地図を片手に、われわれは旅 […]
最近、ブローデルよろしく「歴史入門」を書こうかな、という気にすこしなっている。歴史とはなにかについて、実際にものを書くのはもうすこし先のことかと思っていたが。どうかな?
われわれは転落の最中にある。もがいて浮き上がろうとしても、ますます落ちていく。 必要なのは、これ以上ないほどの深みに落ち切ることである。意外なことに、それでも生きている。あれほど恐れた精神の底で、しかし、身体は生きている […]
春。今年もやってくることに驚いている。疫病があり、戦争があったから、もうこのまま冬が続くんじゃないかと思っていた。今日昇った太陽が沈んだら、明日も昇るかどうか、そんなことまで信じられなくなるような、ひどいことがたくさん起 […]
「存在とは何か」というような哲学的問いにみえるもののほとんどは、ごく表層的な、生活を離れた不安の現れみたいなものだ。もちろん、出発点としての意味はある。その後の必死の生活のなかで、問いは深まっていくかもしれない。 幼年期 […]
年齢を重ねて、夏がどこか切ない、淋しいものになった。酷暑が、死を感じさせるのかもしれない。 青春の遠くなるのを感じるのかもしれない。戦争のこともある。 ◆ 海がみたい。死者の大地としての、大洋がみたい。 この夏は、北村透 […]
『存在の歴史学』の「あとがき」では別のことを書いたのだが、執筆中に考えていたのは、居場所のない、現代の若者たちのことである。いまはとにかく、海が見たい。それから、北村透谷の墓参りに行きたい。 ◆ 居場所のない現代の若者を […]
いつしか、「論争」に意味を見出せなくなってしまった。考えてみれば、それは、ひとが思っているよりもずっと奇怪なものである。自分が「論争」しないのは、勝っても(論破しても)、負けても(論破されても)、たいして面白くないからで […]
五輪の式典をまったくみていない(テレビをもっていない)。だから、語る資格はないのだが、想像はつくので、礼を欠くのを承知ですこし——要するに、日本社会のサブカル化と五輪について、である。 ◆ 自分はアスリートを心底尊敬して […]
オリンピックにかかわって、小山田圭吾氏の「イジメ」をめぐる問題について、しばらく考えていた。結論は決まっている。開会式の音楽担当を辞退するほかない〔注、このエッセイを書いたのち、実際に辞退している〕。作家の人格と作品とは […]