ひとまずイクシーニュ完成、公式オープンと行きましょう。ま、シンプルに、というのがテーマでしたので、すぐにできると思いましたけど、意外とブログの構造(PHP)を理解するのに時間がかかってしまいました。フォントの見え方が、ブ […]
公式も非公式もへったくれもなく、作業の過程まで全開状態ですが、勝手に設けた期日までに、予定していたコンテンツが完成しませんでした。ひとまず、8月7日を目標にがんばります。
田中希生が編集代表&アート・ディレクションを務める歴史と批評の雑誌、『ノートル・クリティーク』創刊号の発送作業が行なわれます。同人誌ではありません(現時点では、そう見られても仕方ないけどね)。これを手に取った読者様の投稿 […]
7月31日の正式公開に向けて、田中希生の公式ウェブサイト、イクシーニュがプレオープンしました。がんばります。 暑いですね。 今日はこれから髪を切りにでも行ってこようかと思ってます。それからコーヒーでも、と思いましたが、今 […]
こんなナイーヴで、しかも仰々しい言葉で始めることが、よいことだとは、あまり思えない。だが、思い切って、告白する気持ちになって、笑われるのを承知で口にしてみよう。――わたしは、人類の歴史を肯定したい、と思う。人類を、肯定し […]
毎度自分のことばかりで恐縮だが、ゴダールの映画に出会えたことは、本当によかったと思っている。十代の終わりに、レンタルビデオ屋でゴダールの『気狂いピエロ』を借りて震撼させられて以来、いつも彼のことを考えていた。ゴダールの映 […]
昔、ある人がこう言っていた。「わたしたちが見ている世界は、いつも世界の半分だ。」それは、正しいと思う。わたしが見ている世界も、きっと、世界の半分だからだ。世界には、つねに、もうひとつの世界、すなわち、反世界がある。わたし […]
わたしは、病院で、こういう話をした。医者は黙って聞いていた。わたしは、この話をするまで、彼のことを、すっかり忘れていた。 ◇ ある男――つまり《彼》が、こんなことを言っていた。 「最近、ひとから、本気の言葉をついぞ聞かな […]
国家の起源をいかに語るか、について、すこし考えておこう。その場合、重要なのは、純理論的な意味での、歴史と世界史のちがいである。「歴史」(国史)の条件には、ヴィルヘルム・ディルタイが言っているように、歴史を語ろうとする主体 […]
長年、ほとんどまともにひとから認められたことのなかったセザンヌは、南仏エクスに隠棲し、孤独な生活を営んでいた。そんな彼も、五十五歳になった。ある日、いくらか気分がよかったのか、不意にかつて親しかったモネの家を訪れた。そこ […]
この三人について、ずいぶん、言葉を費やしたと思う。とくに、デリダについては、ここでは比較的たくさん語ったし、本当のところをいえば、もうあまり文句はいいたくない。きっと彼の人柄は、素晴らしいものだと思うから。それに、わたし […]
言葉は、リプレゼンテーションではない。その証拠に、言葉には、軽さがあり、そして重みがある。しかし、今日、ひとびとが語る言葉のこの軽さは、本当の意味での軽さでは、けっしてない。たんに、言葉には重みがあるということを忘れてい […]
京都文化博物館で、「川端康成と東山魁夷」と題する展覧会が催されている。わたしは、絵を描くのはきらいではないが、音楽に比しても余計に素人である。とりわけ日本画についてはほとんど知識に乏しいし、美術史的な観点ももっていない。 […]
小林秀雄について、なにか書いておこう。彼は、一九八三年まで生きた。その意味では、彼は孤独だっただろう。自分より若かった高見順も早世し、川端康成も自殺し、そして志賀直哉も死に、そのなかで、戦前のひとたちがもっていた、ある種 […]
丸山真男はこういっている。 本来、理論家の任務は現実と一挙に融合するのではなくて、一定の価値基準に照らして複雑多様な現実を方法的に整除するところにあり、従って整除された認識はいかに完璧なものでも無限に複雑多様な現実をすっ […]
Kは、強く、そしてやさしい人間になりたいと、ずっと考えてきた。いまもそうである。その際に、もっとも足かせになるのはなんだろうか。当然、強さとやさしさの逆の観念、すなわち、自分の弱さと、そしてズルさとが、それだ。そこで、と […]
さて、わたしは、言葉は、《力》だと考えている。先の自己対話的エッセイにおいて、完全にAの主張に同意する。言葉は不完全であるとか比喩であるとかいったBのような思考にはうんざりしている。ニーチェは「権力への意志」について語っ […]
A: 言葉は無力である、とあなたは言った。 B: そうだ。言葉は無力だ。言葉は、本質的に、比喩なのだ。レトリックといってもいいし、現実のまとうリプレゼンテーションといってもいい。ただし、リプレゼンテーションは、じつは、現 […]
言語は、主体の意志を伝えるための道具である。このとき、ある語と結びついている特定の意味が参照されなければ、意志が伝達されるということはない、と考えられる。したがって、《意味》が共有されていなければならない。《意味》という […]
射殺された俳優、そして俳優を射殺してしまった観客について考えてみよう。射殺された俳優は、いわゆる悪役であり、主人公を騙してその妻を殺害させ、殺害した本人をも自殺に追い込んだ非道い人物だ。“イメージ”という名の役を演じた彼 […]
「わたしは理論的に小説を書こうと思っているし、君もそうすべきだよ」といったのは夏目漱石で、彼はわたしの胸の上に乗って、両腕を押さえつけた。わたしはもがきながら、「それでは自由がないじゃないか!」と言ったかと思うと、それで […]
どうも最近、メモ書きが多くなって申し訳ない。メモと書かれているのは、基本的に自分用に書いているのだが、にもかかわらず、こうした場所に書くのは、自分に緊張感を与えるためであり、また同じことだが、メモにもある程度責任をもつた […]
《無》とは、多様性のことだ、といえば、読者は混乱するだろうか。あるいは、《無》が「存在」を可能にするのだ、といっても、読者は混乱するだろうか。とはいえ、「存在」は、多様性を抹消する《無》のおかげで可能になる、というのは、 […]
いくらか専門的な話になるが、眠気と酔いにまかせて今日はつまらない話をしよう。この現象は、日本の特異な言説空間をよく示しているといっていい――日本の実証主義の構造についてである。構造――構造というのは正確ではない。もっと、 […]
かつて、プラトンを批判すれば、なにがしかのものを言ったことになった時代があった。プラトンのようなイデア論を批判すれば、それだけで、形而上学を哂う悦ばしき唯物論になりえたのだ。たとえば、柄谷行人の『隠喩としての建築』という […]
デカルトの《コギト》。これについては多くのひとが少しは聞いたことがあるだろう。わたしがこれから語ることは、読者にそれほど理解されないだろうし、きっと誤解されるだろう。そもそも、読者に余計な期待はしていないつもりだが、問題 […]
声と文字、このありふれた二つの《人間的》ツールについて、少しだけ考えをめぐらせてみよう。 声と文字は、ともに他者とのコミュニケーションのツールだが、その違いはなんだろうか。コミュニケーションのツールという点でこれらを比較 […]
最近、ジャック・デリダの文句ばかり言っている気がするが、どう読んでも納得がいかないのだから仕方がない。とはいえ、自戒しておくが、勘違いしてはいけない。彼の行なう、微に入り細を穿つテクスト読解は、それはすばらしいものだ。わ […]
憲法というテクストがある。これはわたしたちの外部にあり、国民投票という改変を経なければ、どうにもならない《もの》である。カント風にいうと、かの憲法は、一種の《物自体》である。もちろん、改変できる以上、「どうにもならない」 […]
人間には、不在のものを現前させる《力》が二つある。それは、想像力と記憶力である。もちろん、これらは、内在的には区別できない。記憶力のまったく介在していない想像力は成立しえないし、またその逆も成立しえない。両者は混在してい […]