川端康成は、東京裁判を傍聴し、次のような手記を残している。 戦争の起因は日本の歴史にも日本の地理にもあつて、今日の日本人のせゐばかりではない。勿論東京裁判のわづか二十五人のなし得たことではない。これらの人達は政治と戦争と […]
昨日あの手の話をしたのは、「従軍慰安婦」のことが頭にあったからだが、途中で脱線した。もともと、直接名指しでそれについて述べるつもりはなかった。が、かといって、相異なる二つの理性とその葛藤について書くつもりもなかった。学的 […]
古代ローマのストア派哲学者であり、劇作家であり、また皇帝の家庭教師でもあったセネカは、学問についての二つの大きな区分に注意を促している。《文献学》と、《哲学》とである。ギリシア語でいえば、前者はフィロ‐ロゴスであり、後者 […]
いまの日本は、世界的な公準に照らしてみれば、どう考えても極右政権なのだが、ネオナチの《アウシュヴィッツは存在しない》というテーゼ同様、そうした言質を繰り返すのが彼らの特徴となっている。彼らには、独特の論理学があって、こう […]
カントは、「他者を手段としてのみならず、つねに同時に目的としても扱え」と言っている(1)。この言葉は理性的な意味ではおおむね正しいが、逆にこのようにも考えられねばならない。《他者は手段としてのみならず、つねに同時に目的と […]
わたしたちが普段何気なく、そして区別しつつ用いている言葉に「想像力」と「記憶力」とがある。いずれにしても、不在のものの現前という意味では同じものであろう。いまここにないものを現前させる、そうした力こそが、この二つに割り当 […]
言葉は、それが言葉であるかぎり、きっとなんらかの対象を持っているはずである。対象というのは、要するに、出来事であるとか、物であるとか、そういうもののことである。たとえば、「海」という言葉は、現実の《海》を指示しているはず […]
歴史にとって出来事とはなにか……。この問いに答えるのは容易ではない。わたしはもはや、歴史にはうんざりしているのだが、それはこの装置が徹頭徹尾反復の装置だからである。たしかに、最初の反復には意味がある。意味……。いい加減勘 […]
人一倍認められたいと思っている男がいた。彼はしかし、認められるための努力など少しもしようとはせず、せっせと自分の思い付きを書き溜めては、楽譜にしたり、カンヴァスに描いたり、あるいは原稿用紙を埋め尽くしたりして、それをひそ […]
どうしても欲しくてたまらなくなって、男はパウル・クレーの絵を買った。買ったといっても、もちろん、レプリカで、しかも買うまで、それがクレーのそれだということも知らなかった。有名な「金魚」の絵なのだが、四隅にきちんと配置され […]
わたしはいまのところ歴史学者のはしくれであって、別に哲学研究者ではなく、最新の研究動向も知らなければ、そうした能力も時間も欠いているのだが、それでもやはり、最低限カントくらいは読むし、無責任な、かつ自分なりの読解がある。 […]
ウィリアム・バトラー・イェイツの著名な詩、「学童たちのあいだで(Among School Children)」の最終行に、次のような一節がある。 How can we know the dancer from the d […]
わたしたちは、簡単に「記憶する」、とか「忘却する」とかいう用語を使う。これらの用語を並べて用いるとき、当然、「善」と「悪」同様、両者は概念としては対立しているように思われる。したがって、ジャック・デリダやハンナ・アーレン […]
暴力と自殺とは、きわめて密接に結びついているように思われる。自殺は、暴力の一種であり、とりわけ自己に向かうことで《関係》を破壊するような暴力である。自殺者は、いったい、何を主張しようとしているのか。暴力が、《関係》を破壊 […]
暴力について、もう少し考えてみよう。 暴力は、権力や重力などと同様、その名の通り《力》の一種である。《力》とは、複数の項を結びつける(あるいは遠ざける)《関係》の、作用的側面を指していわれる言葉である。逆に言うと、《関係 […]
ベンヤミンは、その著書『暴力批判論』において、対立する二つの概念として、「神話的暴力」と「神的暴力」を挙げている。前者は法を措定し、維持する暴力だとすれば、後者は法を破壊する暴力である。ベンヤミンは、もちろん、後者につい […]
「歴史から可能性を見出そうと思っている奴の鼻をへし折るってやるためだ」。これは、なぜ歴史を学ぶのかと問われたときに、ひとが答えるべき攻撃的な解答である。実際、本当の意味での歴史家は、歴史の可能性をしらみ潰しに潰していく人 […]
ニーチェは、どこかで、ギリシア人が「希望」にほとんど価値を与えていなかったことに注意を促している。そのことは、近代人には不可解なパンドラの神話にも明らかである。この神話のプロット――といっても、諸説あるストーリーを、いく […]
さて、少々込み入った哲学的レッスンを、私自身に課してみよう。 「自己嫌悪」というものがある。たとえばこうだ。「どうして私はこれほど駄目なのだろう!」 こうした嘆きには、誰しもが囚われるものであり、かくいう私ほど、この嘆き […]
今日、世界で見かけるきわめて多くの日本人女性が、ルイ・ヴィトンの鞄を持ち歩いている。といっても、日本人女性が、この鞄を作った一九世紀の家出少年の熱烈なファンというわけでもなければ、あるいは、何人かの外国人が誤解しているよ […]
今日、わたしたちが直面しているのは、人類は《炎》を捨て去ることができるのか、という問いであるように思われる。たとえば不運なハイデガーの語った《炎》は、ユダヤ人を焼き尽くそうとしてナチスの放った炎と、結果的にはほとんど同義 […]
世界は、今も、ストア派のひとたちや、カントの言った「世界共和国」に向かってまい進している。世界は可能なかぎり最善の秩序において構成されている。世界理性というものがあるとすれば――それは、すべてを《緩慢に》焼き尽くす炎だ。 […]
カントによれば、純粋理性は次のような道のりをたどる。(1) 独断的理性、(2) 懐疑的理性、(3) 批判的理性、である。これらについて、わたしなりに解説を加えてみよう。 (1) 独断的理性 たとえば神や、あるいは自己の […]
柄谷行人は次のように言っている。 カントによれば、統整的理念は仮象(幻想)である。しかし、それは、このような仮象がなければひとが生きていけないという意味で、「超越論的な仮象」です。カントが『純粋理性批判』で述べたのは、そ […]
今日、その名が名指しされるか否かは無関係に、ある勢力が瀰漫している。それは、新しいカント主義者たちの勢力である。 かつては新たな経験論の到来としてあれほどにさかんに謳われもした、ジャック・デリダの《脱構築》は、いつしかア […]
歴史家であるハンナ・アーレントの概念に、「忘却の穴」がある。ユダヤ人を焼き尽くしただけでなく、焼け残った髪や骨までも消し去ろうとしたナチスの行為は、民族そのものの存在の記憶――痕跡――すら抹消しようとしたのであり、これを […]
B:では、真実と歴史学が、別々に存在しているという、君の考え方は、いったいどこから来ているのだろう? A:それは……当然のことだと思います。学問は、問いですから、答えを目指すものです。そして、学問 […]
B:そこでだ、君。君はどう思う? 価値、というものを信じるかい? A:価値ですか。 B:そうだ。たとえば、いま私たちの足元にある石ころ、この石に価値はあると思うかい? A:いえ……ありません。もし、これらの石が店でしかじ […]
A:歴史学は、真実に到達することが可能なのでしょうか? B:いきなり、どうしたんだい。そんな深刻そうな顔をして。歴史学が真実に到達するだって? 君、そんなこと考えていたのかい。 A:いけないですか。 B:そりゃそうさ。今 […]
言語論的転回linguistic turnについて、あまり理解されていない向きがあるようなので、この際、簡単に説明しておく。今日、歴史学にとっての言語論的転回の価値が、再び増してきているように感じられるから。 言語論的転 […]