今日、わたしたちの眼前に広がっているのは、極端な世界である。インターネット上に流れた、処刑される人質の映像は、現実であると同時に、非現実である。肌も露わなアメリカ女性と、ショールをまとったアラブ女性。あるいは、女性はもは […]
死んで会えなくなることと、遠く離れていて会えないこととは、同じであるように思える。 ……こんなことを言うと、死をあまりに軽視していると思われるかもしれない。たしかに、身体的な死は重要である。なぜなら、もう会うことはできな […]
和音を弾くのが馬鹿馬鹿しくなったのは、いつごろだろうか。たぶん、21世紀になる直前だったと思う。ようするに、その時期が、わたしの調性崩壊の始まりだった。 今から百年ほど前に、和声法よりも対位法の方が強力であるといった音楽 […]
歴史とは、何か。つきつめていえば、それは、過去を現在に回収する装置である。もっと端的にいえば、過去を現在に変える装置である。歴史の装置は、だから、過去ではなく、《現在》に置かれている。純粋に過去そのものであるような歴史は […]
他人について知りたい、という欲望は、ごく自然なものだろう。ひとが、他人の何に興味を持つかはさまざまであろうが、やはり、気になるのがプロフィールではないか。そこには、名前や出身、血縁や地縁、生没年のみならず、場合によっては […]
これは何の記号だろうか……。こんな登場人物がここに存在してよいのだろうか。こんなものは、今の今まで、どこにも現われたことがなかった。お前は誰だ? “a”の痕跡。少なくとも、わたしは覚えていない。どの登場人物が、“a”に変 […]
たとえば、とあるデリディアンはこう言っている。 テクストはつねに完結せず、開かれている。これはクリステヴァやエーコを参照するまでもなくありふれた認識だが、デリダが優れているのは、[…]彼がそれをネットワークの不完全性の問 […]
文字の方がひとりでに話し出す。だから、それを代弁してやるナレーター=歴史家の必要はないという。本当にそんなことがありえるのだろうか。然り、それがミシェル・フーコーの言表(エノンセ)である(1)。じつは、言表は、デリダの言 […]
一度にたくさんのことを言ったり書いたりすることはできない。こうして、ひとは、時間や空間の存在することを知るのだが、ともかく、この時間や空間のせいで、たくさんのことを語り残した。思えば、かつてわたしのものだった言葉から、ひ […]
網羅主義は、古典主義時代の博物学から一九世紀後半の万国博覧会を頂点とする化石的思潮というべきである(もっと古くはアレクサンダーの帝国やローマ帝国の時代、すなわち帝国の時代に主潮となったものでもある)。それが今日、とくに息 […]
何かを語ること、何かを書くことは、それがどのような内容であろうと、それについて肯定することを意味し、またそうであるがゆえに、同時に、語った内容とは別の何かについて沈黙すること、ないしは拒絶することを意味する。つまり、一言 […]
このところ、何かがおかしいと感じている。何かが決定的に足りないと感じている。――足りないのは「わたし」というよりも、「世界」である。さらにいえば、「世界」というよりも、「わたしの思考する世界」である。蛮勇をふるって、さら […]
なにか書かねばならない。 さて、世の中、腐っている。世の中が腐っている以上、当然、自分も腐っているのだが、とにかく自分も含めて世の中は腐っているし、自分にも世の中にも腹が立って仕様がない。子供だと思われてもいいから、一度 […]
ふと、オヴィディウスの『変身物語』のことが浮かぶ。神の表象について考えてみよう。 ふつう、考えられる神の表象パターンは、三つある。ひとつは、怪物として描かれる神である。すなわち、三本以上の腕、三つ以上の眼球、二つ以上の顔 […]
《戦争》について、少し考えておきたい。書きながら考えるので、おそらくまともな文章にならないことを断っておく。 さて、まずこの場合、問わねばならないのは、“《戦争》とは何か”、という問いがそもそも立てられるか否かである。一 […]
ところで、夏目漱石がなにより戦い、敵としていたのが同時代の自然主義者たちであった。彼ら自然主義者は言うのだ、徹底した自己批判を行い、主体と客体とを分離することで、客観的な観察者となり、そうした《目》で物事をみることで、あ […]
世界はいつまでたっても進歩しないし、変わっているように見えるが、何も変わっていない。相も変わらず奪いあい、騙しあい、殺しあっている。そればかりか、昨今の環境問題をみるかぎり、あるいは政治問題をみるかぎり、かつてみられた、 […]
フーコー、ドゥルーズ、デリダ。この三人が死に、いわゆるポスト構造主義をリードした人間がいなくなって思うことは、いまこそ、この三人の可能性が賭けられている、ということである。死は、人を、現在から、過去と未来とに送り返す。だ […]
あなた、いま、いったいなにをしているんですか? と、問われて答えに窮したぼくは、おもわずとっさに、文学をやっている、といってしまった。いってのけたあとで彼女の顔を窺って、それで、あァ、しまった、と思ったが、もう、ずいぶん […]
「文学者」とは、いったいなにか。厳密論で行くならば、何らかの描写において、徹底的にリアリズムを追求したことのある者だけが、「文学者」でありうる。だが、もちろん、そうでない者もたくさんいる。彼らもまた、文学者であることには […]
この書は、もとは一九八〇年代初めに出て(その後著者の意志で絶版、原型は『内省と遡行』に見ることができる)、一九九二年にArchitecture as a metaphorとして英訳されたものに大幅に加筆され“定本”として […]
先日、大阪市立美術館で開催中の円山応挙展を訪れる機会を得た。 わたしには、とくに日本画の知識はない。しかし、画聖といえば、普通は応挙を指したはずだし、また、同時代――つまり化政文化時代の代表的作家である歌麿や写楽、北斎ら […]
H.ハヤシはまだ廻っていた。六月のある夕立の日に廻りだしたのだから、もうかれこれ三ヶ月以上廻り続けていることになる。もうそろそろ止まってもいいような気がするのだが、そうもいかなかった。どう考えてみても、止まる理由がみつか […]
19世紀初頭の歴史家、B.G.ニーブールは言っている。「歴史は明晰に周到に把握されるならば少なくとも一つの事柄に有用である。すなわちわれら人類の最大最高の精神といえども彼らの眼が見るための形式を如何に偶然に採用したかを知 […]
さいきん、小林秀雄のことを考えることが多くなっている。歴史とは、たしかに抗いがたいものである。“世界史”や、あるいは大文字の歴史が、あくまで、思考のメタ・レヴェルに立つときに可能なものだとすれば、小林秀雄の言う《歴史》は […]
名前だけならほとんどの日本人が知っているだろう、チャップリンだが、しかし、作品の彼を実際に観たことのある人間は、ずいぶん少なくなっているかもしれない。わたしも『独裁者』をレンタル・ヴィデオで観たくらいで、それ以外は断片的 […]
世界救世経から分離した神慈秀明会の本拠に隣接するMIHOミュージアム(滋賀県信楽)を訪れる機会を得た。わたしは基本的にローマ人と同じで、「わたしは無宗教である」と語る必要を感じないほどに無宗教の人間であり、ましてや新興宗 […]
2:1、3:2、4:3、9:8、256:243……。 わたしは、ショパンの『幻想即興曲』を好んで弾く。この曲は、左手が6拍子を刻み、右手が8拍子を刻む。3:4になるので、左手と右手は分離せざるをえない。左手がひとつ音符を […]
この作品をもって、鬼才ベルトルッチは巨匠となり、坂本龍一は名実ともに“世界のサカモト”となった。 個人的述懐だが、わたしがこの作品に触れた最初は小学生のときに聞いた音楽においてだった。母がテープでこの映画のサウンドトラッ […]
先月、H.林は二十七歳になった。彼はこの歳で、いまだに学生だったが、もちろん、本人にしてみれば、けっしてモラトリアムの延長という気分でいるわけではなく、むしろ、日ごろ安易に流されてしまいやすい自分を鼓舞する背水の陣のつも […]