わたしはルノワール作品はこれが最初の鑑賞であり、数ある作品群から帰納的に導きうるルノワール映画を総じて語る資格をもち合わせていないことを銘記しておく。 戦中の日本では、この映画は反戦的、反国家的であるという理由で上映を禁 […]
超有名シーンの連続。プロペラ機に追いかけられ逃走する思いもよらぬシーケンス、あるいは、四人の大統領像のあるラシュモア山を背景に繰り広げられる、ヒロインの肘が心配なスリル満点のシーケンス。今日のハリウッドのエンターテイメン […]
原題は「マタイ福音書」。パゾリーニ監督の名を決定的にした64年監督作品。一時はカトリック教会から有罪判決を食らったほどのパゾリーニにあって例外的に美しく、教会からも高い評価を受けた作品。だが、イエスの母役に自分の本当の母 […]
‘サイコ’という用語を世界に知らしめた、ヒッチコックのもっとも著名かつ、最高傑作の一つに数えられる作品。低予算で作られたことでも知られる。冒頭でフェニックスの地名が字幕で現われるのが印象的。中盤でのちょっとした出演者のや […]
“フィガロ誌”十周年を記念して製作された短編集『…の見たフランス(パリ・ストーリー)』のなかの一篇。なかにはアンジェイ・ワイダの作品もあり、これは一瞥に値する。 短編集のなかではいつも際立った存在となるJLG作品は、ここ […]
原題は『徒党』。なぜ今まで日本で一般に公開されなかったのかが不思議なくらいポップな映画。タランティーノが、アニエス・Bが、ヴェンダースが絶賛するなどカルト的な人気を誇る映画でもある。ベンヤミンが言っていたキッチュと前衛の […]
アンヌ=マリー・ミエヴィルによる「マリアの本」と、JLGによる「こんにちは、マリア」の二本立ての映画ではあるが、連作であり、あるいは一つの作品と言ってもよい。イエスの母マリアの処女懐胎を現代に翻訳した問題作。当然ながらそ […]
ウエスト・コーストから産声をあげ、1971年にリーダー、ジム・モリスンが急死するまであらゆる面で華々しく活動を繰り広げた伝説的バンド、ドアーズの記念すべきデビュー作。このバンドの特徴は、やはりジム・モリスンの「悪魔的な」 […]
行動イマージュの完成はここに示されたといってよい。3Dフィルムと呼ばれるほどの映画的空間の精密さ、最大限に活用される光と影、寸分の隙のないフレームワーク、あるべくしてある音楽/音響、どれをとっても非の打ち所のない、完璧な […]
ニーチェ主義者だったマックス・ヴェーバーにとって、ドイツ歴史主義の時代の雰囲気のなかで活躍しながらも、また、その当の歴史主義こそは最大の敵でもあった。それゆえ、今世紀の半ばにポッパーによってなされた歴史主義への痛烈な批判 […]
「《歴史》とはなにか。」 この問い、ほとんど沈黙を意味するかにみえるこの問いこそが、カントを境界線として始まった近代人のもっとも憂慮すべき問題であったことは、答えを待たないだろう。近代は超克されたか? 歴史は終焉したのか […]
劇中にも競走馬の名前で言及があるが、小津安二郎のパロディのような映画。ジャームッシュがヴェンダースと親交があることは衆知のとおりで、また、この映画はヴェンダースからあまったフィルムをもらってつくったといわれている。小津安 […]
ベートーヴェンの弦楽四重奏曲がこの映画の始まりを告げる。ベートーヴェンは、フィナーレにおいて再び奏でられるだろう。この曲は、ゴダールの『カルメンという名の女』のある重要なシーケンスにおいて、強弁的に奏でられた曲でもある。 […]
ゴダール(JLG)とおなじく歴史を追及しながら、JLGとは対極に位置する映画の極北、ストローブ=ユイレの作品。シェーンベルクの一幕オペラの完全映画化。閉じられた空間のなかで奇妙に演じられる倦怠期の夫婦の無機的メロドラマは […]
涙が止まらなかった。出演者がこちらを向くたびに思わず微笑みかえし、演奏が始まると同時に足が勝手にリズムを刻み、演奏が終われば、拍手をしないでいるのが難しかった。残念ながら、日本には小津安二郎の精神を受け継ぐ者は現われてい […]
「地獄の時間としての「現代(モデルネ)」。この地獄の懲罰とは、いつでもこの一帯に存在している最新のことがらであり続けねばならないということだ」 「まさしく最新のものにおいて世界の様相がけっして変貌しないということであり、 […]
似ていることを云々することは、似ていないことを際立たせることであって、実際にはそちらの方が重要であり、それはヘーゲルが反面教師的に教えてくれたことでもある。似ている、と言うことは、似ていないと言うことに等しい。…… 歴史 […]
1960年代半ば、アメリカで登場した「ミニマリスム」、いわゆる最小限主義は、まず美術界から起こった。この芸術運動は、作品の匿名性、いわば作者の内的イマージュの徹底的な廃棄を目指し、また、前衛運動の最後の音楽に位置付けられ […]
まちがいなく、物語は死と直結している。ヴェンダースがいうように、物語、あるいは歴史は、死において語られるほかないのである。 ………… 映画撮影のロケ地となった、ポルトガルのとあるホテルに集まったスタッフたち。だが、突然撮 […]
原題は「モニカとの夏」。自由奔放で快活なモニカと、まじめで臆病なハリーの二人の恋愛は、すでにはじめから後に控えているだろう破局をにじませずにはおかない。ここでは一点だけあげようとおもう。モニカが友人との浮気を決意するシー […]
演奏とは、じつは創造である。創造であるほかないのである。例えば、バッハの演奏なら、それがバッハの再現前化であるようなことは決してない。その逆に、作曲という外観上創造的に見えるものが、じつはなにかの再現前化であるようなケー […]
衝撃的。ロッセリーニの三部作の最初を飾る映画史上つとに名高い『無防備都市』(1945年)よりも圧倒的な印象。映画の範疇を超えているとおもう。この戦後すぐの作品の領域に達した映画はいまだに数少ないだろうし、歴史に取り組む姿 […]
愛撫。久々に聴きかえしている。 このアルバム製作の直前、スランプに陥ったと坂本龍一は述懐していたと思う。POPをテーマに据えることの困難が、そうさせたのだと思うし、この道は出口のない道であるようにも感じられるが、それでも […]
「もはや沈黙は共謀を意味する」というクリス・マルケルらの言葉に応じて集まったフランスの映画監督たちの、ヴェトナム戦争への映画的闘争、『ベトナムから遠く離れて』。ヨリス・イヴェンス、アラン・レネ、アニエス・ヴァルダ、ウィリ […]
1983年、オペラ『カルメン』の著作権保護期間が終了し、時を同じくしてたくさんのカルメン映画が作られたという。本作はそのうちの一本であるが、事実『カルメン』のストーリーをなぞりつつも、まるで、そのストーリーのなかに観衆を […]
いかにもぼくが好きになりそうな映画。静と動、言葉と映像、主体と客体、記憶とイマージュ、現実と思想、オブジェ(事物)と人間、アジアと欧米、男と女、売春とロシア人種、存在と非在……。あらゆる二項対立を画面の中に同時に収め、そ […]
副題として、「マルクスとコカコーラの子供たち」と掲げられているように、同時代フランスの若者の分裂症的生態をエッセイ風につづった作品。恋とマルクス、愛と反戦、性愛とゼネスト、避妊とアメリカ、娼婦とコミューン…。15の断章に […]
映像には、つねに撮る側の視点が加わらざるをえないものであり、ましてやその映像を万人が観るに耐えうるかたちに編集しなければならないとすれば、ドキュメンタリー的価値が後退するとしても、必要悪として受け入れなければならない部分 […]
1990年の冬、再統一を遂げたドイツを唯一撮りあげた映画(といわれている)。もちろん、ロッセリーニへのオマージュ。80年代以降のJLG映画の到達点ではないか。最後まで非常に興奮して見終えた。JLGの映画への倒錯的な愛情は […]
「真実以外は何も語らない…」というジャンヌ役のファルコネッティの言葉は、それ自身が真実であるかのように思える。つまり、この映画そのものを、真実の高みにまで昇らせる、悲劇的で、かつ野心的な発言に思える。この古い映画は、連続 […]