疫病は一進一退、簡単に収束、というわけにはいかない。この間、命あるかぎり、人間社会をあつかう学者は貴重な経験をしていることになる。 それが疫病の収束に直接役に立つか、というと、そういうわけでもない。わかるのは、人間のある […]
さて、疫病がふたたび力を揮っているのか。ニーチェは疫病の解決策は「悲劇」と言った。自然、あるいは歴史がもたらす災厄を運命として受け入れる態度のことだ。われわれ現代人はこれを統計学的に理解する。疫病の問題は、ウイルスや細菌 […]
コロナはもう、自分のなかでは終わっている。しかし、それはほんとうの終わりを意味しない。危機の常態化を意味している。受け入れるべきではない日常か、非日常かの選択を迫られるような、そうした社会が到来しつつある。もはや政権の性 […]
コロナ禍はひとまず落ち着いている。だが、経済への影響は依然としてつづいている。むしろ悪化している。「スピード感」という独特の言葉の用法のおかげで、政府はかえってもたもたしている印象を覚える。嘘を恐れて嘘を吐く、トップの臆 […]
学問が専門に分化し、分業を前提にした学者のコミュニティができた。専門のなかに閉じこもっている学者が考えるのは、せいぜい隣接領域との交流だ。だが、学者の多くが気づいていないのは、それらが前提しているのは、どのみちそれらを横 […]
コロナは小休止といったところだろうか。コロナを機会に、権力の浸透がいたるところで生じている。ごく親しい間柄をのぞけば、端的に、水平の連帯が分断され、垂直の関係だけが許されるようになっている。これは危険なことだ。どういった […]
壁に描かれた空を見つめる猫のことを、誰かが呟いていた。われわれは愛しい子供を見るような目線でもって、これを笑う。だが、これが猫の誤解ではなく、能力であると感じられる人はいるだろうか。 われわれ人間とて、虚構と現実の区別を […]
ぼくらは疫病の恐ろしさを忘れていたと思う。すくなくともぼくは、それがもっぱら肉体的な問題だと思いなしていた点を反省しなければならない。もちろん、黒死病のヨーロッパで、それが魔女狩りやユダヤ人差別と関連づけられることがある […]
コロナ禍はつづく。極端な自粛が生じつつある。政府はひとまず、全住民に一〇万円、配ることを決めた。たいへんなことだ。一度で済めばいいが、長引けば、二度・三度、必要になろう。疫病の恐ろしさを痛感している。怖いのはウイルスでは […]
いま、世間はたいへんなことになっている。ウイルスのために、家の外に出ることさえ、おぼつかないのだ。 だが、ひとには日々の生活がある。大人は仕事をせねばならず、学生は学ばねばならない。生命にとって、日々の食事を途切れさせる […]
ディミトリス・パパイオアヌー“偉大なる調教師”を鑑賞に京都はロームシアターへ。 ◇ 今、ぼくは日本の天皇を論じようとしている。この課題が自らの身体をはるかに超えることはあきらかだが、その課題と同じかそれ以上に大きな課題に […]
ゴダール最新作を観に京都へ。 ◆ いまや彼も八八歳である。思えばその処女作からこの最新作にいたるまで、彼は一貫して、映画の根源から、世界にメッセージを発してきた。イメージがもっている純粋さにひきかえ、汚れたもの、濁ったも […]
いま、京都で東山魁夷展が開催されている。 東山魁夷は戦後最大の画家のひとりであり、またこれほどの個性を内に秘めた画家もめずらしい。日本ではきわめて稀な存在であり、やはり画家中の画家といってもいいはずのものだ。 内に秘めた […]
四年にわたる修復作業を終えた、名高い當麻曼荼羅をみに奈良国立博物館へ。 ◆ 中将姫の伝説は多くの者が知っていよう。「日本無双の霊像」と呼ばれたこの曼荼羅は、姫が蓮糸を用いて一夜にして織り上げたといわれる阿弥陀浄土をあらわ […]
英国民が、投票結果は賛否拮抗とはいえ、EU離脱を決めたとき、自分は膝を打った。「理念」に対する別の観点を示していたからである。たしかに戦後の理念、たとえば民族融和や自由主義崩壊の一局面にはちがいないが、そもそも理念とは何 […]
秋のやわらかな日差しがカーテン越しに。鳥の歌声が右に左に——。 学問において、なにかを認識する、ということは、とても大切なことである。それどころか、避けて通れないものだ。 しかし、認識する、という態度それ自体が、対象を変 […]
いてもたってもいられなくなってデモに参加した若者たちの純粋な精神とひきかえ、経済効果のために若者を戦争に参加させようとする大人たちの精神の貧困は見るに堪えない。だが、日本のインテリにはもうすこし責任があると、ぼくは思う。 […]
かつてはいまの倍の長さのあったと記憶する、梅田の地下道を通り、ジャン=リュック・ゴダールの最新作、『アデュー・オ・ランガージュ』(邦題『さらば、愛の言葉よ』)を鑑賞した。 ゴダールの映画は、つねに「映画とはなにか?」とい […]
旅に出て、そこで写真を撮って帰ってくる。それもまた、今日的な旅の形ではある。前近代においてひとは旅先で歌を歌い、あるいは日記を綴った。二度と見ないかもしれない景色を写真に収めることも大切である。だが、じつは、その景色をみ […]
歴史学(歴史主義)は、哲学の普遍主義に対立するものとして生まれた。前近代はといえば、とかくイエスが、孔子が、仏陀が、とやっていたのだ。彼らの言葉は恒久的に普遍であり、ぼくらの課題はといえば、その「教え」にいかに近づくか、 […]
商家に生まれたカミーユ・コローは、父から画家になることを反対されていた。それでも夢を諦めきれなかったカミーユは、ついに親元を離れ画家への道を歩み始める。それが相当な決意を要したことが、ぼくにはよくわかる。死んだ妹の結婚の […]
一昨日、車を飛ばして今年遷宮を迎えた伊勢神宮へ。二日かけて、外宮と内宮、そして伊雑宮をまわる。 神社の気に入っているところは、参道を歩くことである。寺院が提供するのは伽藍だが、神社は道しかない。ひとの目を楽しませる建築物 […]
自分は、コンセプチュアル・アートにブラインドである。 ◆ ある言語的なもの=概念conceptをなんらかのオブジェで代理=表象representさせるやり方は、自分には間遠くみえる。それなら、言葉で説明したほうが早いので […]
車を飛ばして屋島へ。世阿弥は義経を主人公とする能の主題を「屋島」にとった。平家物語を読むと、義経の狂気を読み取らないでいるのはむずかしい。「修羅」とは、史上の英雄がときに陥る病である。彼は究極の平和を目指して飽くことなく […]
時代区分とは何だろうか。 歴史学者の縄張りみたいなものだろうか。あるいは、協同を前提にした、一種の分業のようなものだろうか。さもなければ、ひとりひとり専門領域をもつ学者に対する遠慮が形づくっているのだろうか。現実的には、 […]
右や左の議論と完全に手を切ったのは、二十代最後の年だったと思う。ほんとうにどうでもよくなった。しかし、世間の問題は、出来事そのもの、歴史そのものとはほとんど無関係に、むしろそれについての左右両陣営の意見をもとに構成されて […]
昨日はどしゃぶりの雨のなか、京都市美術館で開催されているバルテュス展へ。 バルテュスは本名をバルタザール・クロソフスキー・ド・ローラといい、『ニーチェと悪循環』の著者、ピエール・クロソフスキーの弟である。ピカソにより「二 […]
今日も一日、編集作業。夕刻、懇意にしている美容院の予約がいっぱいであてがはずれた。突然時間ができ、知人を飯に誘ってみたが郷里だった。なんとなく駅でネクタイを買った。 真実と事実のちがいを知ることは、そんなに簡単ではない。 […]
台風が去って、盆の空気が肌にまとわりついてくる。盆の空気が好きだ。祭りのあとの夕暮れ、夏の空気がもう帰ろうとしているのはわかっている。だが、もうすこしだけ、たとえばあと一杯コーヒーを啜る時間くらいはいっしょに過ごしてもい […]
ソクラテスはいう。 一体、言葉で語られるとおりの事柄が、そのまま行為のうちに実現されるということは、可能であろうか? むしろ、実践は言論よりも真理に触れることが少ないというのが、本来のあり方ではないだろうか? 人はそう思 […]