言語論的転回以後、歴史の実証主義や構成主義は、どこに向かっていくのだろうか。じつはどちらも歴史をどう認識するのか、というタイプの議論である。したがって、歴史は認識における弁証法作用の起点でしかなくなる。要するに、それはテ […]
酒に対いては当に歌うべし/人生幾何ぞ/譬ば朝露の如し…… ◆ 人間の歴史を美しくと思えるようになって、ようやく出口を見つけたが、思いがけず、孤独な場所に出てしまった。しかし、よくみると、みんないる。しかも前方に。ニーチェ […]
歴史家が向き合ってきたもの、それは瓦礫である。一般に、歴史家が扱うのは文献である、と考えられている。ならば文献と瓦礫とが同じものだと、この書き手は言おうとしているのかと、読者は疑うかもしれない。もちろん否である。瓦礫、そ […]
京都には南京攻略に参戦した第十六師団があった。師団の兵士から郷里に宛てた手紙をみたことがある。そこには、《最近は民家に隠れている中国人を殺すのが慰め(大意)》と書かれていた。 しかし歴史学者ならば、この手紙に反対すること […]
ある作家がこんなことをいっていたそうだ。「言葉というものには、それに仕えてきた者をいつ見捨てるかわからないところがある」……。しかし、もしそのようなことがあったら、この作家は作家生命を絶たれているはずである。これを批評家 […]
多くの若者たちは、歴史学は記憶から始まると誤解している。だが本当は、歴史は忘却から始まるのだ。誰かの記憶が失われてしまったときが、歴史の出発点なのである。記憶痕跡を持続させようとする試み自体は、人間的なものであって否定で […]
偶然と必然の織りなす歴史の荒波をわたって、よくぞ戒律なき土地へやって来た。失明した鑑真にずいぶん立派な寺院が用意されたが、海を越えることを生と決めつけた彼には、その後の時間も寺も、すべては過剰なものだったろう。だがその過 […]
犬のディオゲネスが人間を探して昼間の市場でランプを灯していたのは、アテナイがアレクサンドロスのマケドニアに従属する頃の話。ニーチェはこのエピソードから、超人の概念に行き当たる。超人は、ヒューマニズムを否定しているわけでは […]
超越論哲学——キリスト教社会における、神的超越から人間的超越「論」への移行。西欧社会がもちえたカント哲学の価値を、東洋のわれわれは想像するほかない。また一方で思うことは、カント哲学は日本にあまりのもはまりすぎるのではない […]
かつてゾラが、コローの描くニンフが労働者であれば、もっと高い評価を与えたと、言ったことがあった。一理はある。だが、わたしは労働者とは、ニンフのようなものなのだと感じている。数えることを許さない、特別な自然。数を数える人間 […]
デリダやカント主義者による懐疑哲学は、実証主義のドグマ、マルクス主義や民族主義史観といったさまざまな歴史観のドグマから、若者たちを抜け出させてくれた。そこに他者がいる、という指摘はドグマに対するこの上ない痛棒だった。さて […]
歴史が《星座》の貌をしていることを発見したのはヴァルター・ベンヤミンである。イマニュエル・カント以来、言葉と言葉とをつなげることのうちに、多くの近代の歴史学者は因果律を見いだしていた。だが、それを因果律と呼ぶのはすこし行 […]
文学と政治の関係はどのようなものだろうか。かつて、文学を政治的なものから切り離そうとする運動があった。というよりもむしろ、そのことだけが、文学という運動だったといってもいい。 こうした運動は、元来は文学と政治とが、いずれ […]
ものや出来事の起源を、あるいはそこにそれがありまたそれが起きることの必然性を、ひとはたどりたがる。このようなひとびとの思考は、かならずどこかで択一を強いる二つの選択肢にたどりつくだろう。すなわち、起源や必然性を可能にして […]
瀬戸内を旅した。抜けるような青空。空と同じ色の海面。日差しの焦がした肌を波の飛沫が濡らす。空にせよ海にせよ、両者の境界を時折横切っている島々の緑にせよ、恐ろしく単純な色彩が刹那の感を漂わせてかえって切なくさせる夏の一日。 […]
わたしは、積み重ねてきた善行の見返りを生きているうちに貰いたい、と考えている人間である。だが同時に、わたしに振舞われた同時代の人間からの不当に対するお返しは、次の世代と次の次の世代の若者が支払ってくれるといったゲーテの考 […]
孤塁を守る高貴な人たちがいる。国際的にも国内的にも、孤塁を守る人たちが、大群をなしているひとたちに閉鎖的といわれ、無防備なまま開放させられる。そんな社会になりつつあるようにみえる。辺土で大切に守られてきた、あるいはなんら […]
ジャーナリズムが《文学》の堕落した形態のひとつなのはたしかである。《文学》は虚構をあつかうのではない。むしろ嘘を吐いているときでさえ、真実を語ろうとすることが《文学》である。しかし、真実を語ろうとするあまり、実際に起こっ […]
ミシェル・フーコーは、国家、あるいは権力について、「管理」される状態や「規律」化された状態と結びつけて議論した思想家だと考えられている。だが、彼は管理や規律とあわせ、「主権(法)」についても論じていた。むしろこの三つの状 […]
物体をどこまでも分割していく。するといずれは、これ以上は分割できない小さな物体があらわれるだろう。それをデモクリトスは《原子》といった。これは哲学上のひとつの立場であって、無際限に分割できるという立場もありうるが、ともか […]
独白とはなにか。この奇妙な言葉について考える際に重要なことは、ある観点をこの問いに紛らせないことだ。すなわち、社会である。つまり社会化されない言葉は、すべて独り言である、と考える立場である。たとえ複数の人間のあいだでかわ […]
事故とはなにか。 本来、事故は持続的に起こるものではない。点で生じる。仮に持続したとしても、持続をもって事故とは本質的に考えない。しかしその反対の安全は、持続的でなければ意味がない。ある瞬間に安全でも、次の瞬間に死ぬ可能 […]
黄砂のなか尾道を旅した。志賀直哉に会いに出かけたのだが、それ以上に、いま日本で起きている騒動が重なった。瀬戸内のあのあたりは元来災害の少ないところときいている。だがもし津波がくれば、あの不思議なまちは元通りにならないだろ […]
原子炉のなかに、「安全」という名の猫がいる。原子炉を開けることはできず、開くとすれば、原子炉が事故で爆発するときだけだ。さて、「安全」はこの原子炉のなかで生きているだろうか、それとも死んでいるだろうか。もちろん、中を開け […]
正論を吐くことで政治的に極端な立場を表明しているようにみえることは、たしかにある。それ以上に、正論には権力的な響きがある。1に1を足せばたしかに2になるだろう。だが、その正論さえ権力的に聞こえる。煩(うるさ)いといいたく […]
文学はどこへ行ったのか。文学はまったくの無に帰してしまうものなのか、それとも永遠につづいていくのかはわからない。わかっていることは、消えて生まれるもの、ということだ。滅び、そして誕生する、それが文学である。文学は、おのれ […]
学者にとっての実践とは、自分の頭で考えることであり、本を読むことではない。実学と虚学という分割は不毛であり、ましてや、実社会でお金のやり取りをすることが実践で、学者は理論にだけかかわっているというのは、学者自身も陥りがち […]
わたしは文献に日々たずさわる文献学者である。その立場からみた最大の痛恨事のひとつは、一部のストア哲学である。その重要なテクストが、いまでは灰になってしまい、復元などとうてい不可能な程度の断片だけが残されることになった。と […]
アナーキストに保守主義や貴族主義を見出すタイプの議論がある。たとえば、芥川龍之介の大杉榮評がそうだった。彼は大杉の死に対して、冷淡なコメントしか述べていない(作家のなかでは、いうなれば貴族である志賀直哉は多大な同情を寄せ […]
いつしか自分の頭に住みついた片頭痛が日曜日の深夜に勢いを増す。発作的に激烈な痛みと嘔吐に襲われる。ミシュレやニーチェのかかった病と同じなら少しは気は休まるが、肉体的にはこれまで感じたことのないほどの痛み。 日々の頭痛の種 […]