日本史研究会という学会の近現代史部会で研究報告することになりました。こういうところと縁があるとは思っていなかったので、すこし驚いていますが、呼ばれたからには気合いを入れて行ってきます。当日お暇な方はぜひどうぞ。 日時:2 […]
人文学の正午研究会のウェブサイトがリニューアルされたそうです。田中希生は雑誌『人文学の正午』創刊号に論文「近代人文学とはなにか 二つの世紀の記憶と忘却」を寄稿しています。ウェブサイトでPDF版が閲覧できます。 http: […]
諸般の事情で伝えるのが遅れてしまいましたが、学術誌『人文学の正午』が12月24日に出版されました。三つの論文、翻訳、エッセイが掲載されています(田中希生の論文は「近代人文学とはなにか 二つの世紀の記憶と忘却」)。表紙の画 […]
このところ身体の一部で感じているのは、懐疑につぐ懐疑、超越論につぐ超越論のはてに、神学的ドグマに回帰する傾向である。私はなにものをも決定しない、という態度は、究極的には、神(宗教)にすべての決定を委ねる神学的ドグマに行き […]
人間の本質的非対称性について、ヘラクレイトスの徒であるニーチェは考える。同じものはなにひとつない。ゆえに似ている、似ていないと言葉を弄することも、究極的には詮なきことだ。なにひとつ交換可能なものはなく、またなにひとつ対称 […]
1910年4月、大逆事件が明るみでるひと月前、血気盛んな若者たちによって、ある文芸誌が創刊される。その名は『白樺』、資本主義市場からは一線を画した、一度も商業ベースには乗ることのなかった、しかし文壇の天窓を開いたと言われ […]
歴史学者は、ひとりの潜水夫である。海の底で、息が続くかぎり、古い宝物を拾い集めようとする。岩をめくっても、なにかとれることは滅多にない。この海は、忘却の海だ……。地上から忘却を非難するひとがいる。たしかに、この海には、宝 […]
柄谷行人は世界史を《交換》の視座から考察する(たとえば、近著『世界史の構造』を参照せよ)。彼があげる交換様式は三つ。ひとつは贈与とその互酬。二つ目は、略取と再分配、三つ目は商品交換である。「贈与とその互酬」は共同体に、「 […]
10月30日(土)、京都府立大学(合同講義棟)にて史創研究会第1回大会が開催されます。午前の部(午前9時〜12時)は研究報告、午後の部(午後1時〜5時)は「近代の起源と構造」をテーマに樋口陽一氏を迎えてシンポジウムが行わ […]
ここ数日ある政治家をみていて、ひさしぶりになんともいえぬ感興を覚えた。同時代人として、こういう政治家に出会えたことに対するそれ。政治家に一流などいないと思っていた自分の浅墓さを詫びたい気持ちになる。ある程度権力をもった政 […]
来たる9月25日(土曜日)、14:00より京都大学にて第4回人文学の正午研究会が開催されます。第1回は「人文学とはなにか?」、第2回は「色彩論」、第3回は「ベンヤミンの言語論と歴史」でしたが、第4回は「1960年代前半に […]
対象と真に関わろうとするならば、あらゆる関心、欲望を捨て去らねばならない。女性のもつ真の美を求めるのであれば、性的な欲望は慎むべきだ。欲望が映す美は、真の美ではない。欲望を対象に投影しているにすぎない。あらゆる雑多な関心 […]
自然は固定観念をもっている。たとえば太陽は東の空から昇って西の空に沈み、蝉は夏の盛りに啼く。夜の終わりに覚めて昼の終わりに眠り、赤信号で足を止め生まれそして死ぬ。 自然界は、いわば固定観念の束である。羅針盤の針が北を向き […]
ジャック・デリダの脱構築déconstructionについて、あるいはその主要な駆動装置となる差延différanceについて、いま、ひとはどのように考えているのか。20世紀後半から今日に至るまで、これらの概念(デリダは […]
脱構築に希望を見いだしたひとは、おそらく、ドゥルーズやフーコーの思考を紛れ込ませていただろうし、デリダを純粋に読んだなら、かえって社会の変革不可能性を見いだしたはずである。しかしそれはもっと馬鹿げている。 ところで、内容 […]
おそらく、言葉の死があったのだ。《言葉は死んだ!》――言葉だって腐るのだ。ニーチェのいわゆる「神の死」は、神が言葉であることの言明である。だが、わたしのいう《言葉の死》は、生が輪廻転生のうちにあることの言明である。言葉の […]
わたしは「言葉」について、昨今流通している言語論とは違う考え方をしている。ひとは本質的におしゃべりである。喋るのをやめることはない。 最後の言葉があるのだろうか。誰が最後の言葉を吐くのか。最後の言葉はなにか。最後の言葉は […]
消え去る意志を持つ者だけが、歴史に名を残す。歴史とは、元来、消え去るものにかけられる深い愛情だからである。優れた芸術が時空を超えるのは、それらの芸術が消え去るものを表現しているからである。 われわれは、消え去る過程にいる […]
なぜ内面が発生するのだろうか。 気になるのは視覚である。というのも、聴覚や嗅覚、触覚は、身体の内側も感覚しているが、視覚はそうではないからだ。たとえば心臓の音を聞き、内蔵の匂いを嗅ぎ、骨の位置を感覚することができる。しか […]
社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められよ […]
表現する、とは、内面を抹消すること、つまり内面を皮膚として扱うことである。こうした表現世界において、芸術は極大の価値をもつ。政治にせよ、学問にせよ、経済にせよ、それらが皮膚において生じているかぎり、芸術はそれらと同じ場所 […]
原則的に、歴史の登場人物はみな明るい。とくにギリシア人ときたら。彼らには陰鬱な部分はみじんもない。彼らはいっさい、隠し事をしない。 ギリシア人は、人間がもつべき一切の深みを欠いている。たとえばオイディプスは、アポロンの神 […]
ひとは他者について、とても表面的だと感じている。過去の文化や他国の文化について、それらはいかにも表面的に見えるのだ。これらはオリエンタリズムの一種だが、空間的なものではなく、時間的にも存在していて、古い演劇で用いられる仮 […]
来たる7月10日(土曜日)、13:00より京都大学にて第3回人文学の正午研究会が開催されます。第1回は「人文学とはなにか?」、第2回は「色彩論」、第3回は「ベンヤミンの言語論と歴史」の予定です。ドイツの思想家ヴァルター・ […]
二つ上の世代は上手に船を造った。一つ上の世代は船を上手に乗りこなした。しかし船はだんだん老朽化してきた。「ぼくらが島まで行ったら、この船は終わりだよ。」彼らは船を直そうとも、新しく作ろうともしなかった。彼らは言った。「子 […]
マイケル・ジャクソンが死んだとき、書こうと思っていたことがある。それをずっと書かないでいた。なぜだろう? たぶん、世間が大騒ぎして書く気が失せたのだ。そして忘れていた。だが、ふと思い出した。アメリカ合衆国とは《何だった》 […]
ニューヨーク・タイムズは、5月23日付けの記事、“Japan Relents on U.S. Base on Okinawa”のなかで、「オバマ米政権の勝利であり、鳩山首相にとっては屈辱的な後退a victory for […]
欲望中心の表象には、強さがある。街を歩く群衆は、己の考え事に耽っていて、他人の顔など見向きもしないし視界に入っても覚えていない。なのに、この欲望中心の表象ときたら、そんなひとびとの無関心などおかまいなしに、暴力的に視線を […]
「懐疑」とはなにか――。自分のみている女性が、知っているあの女性ではないかもしれぬと考える。表象と概念の分離といっても、対象と表象の分離といっても同じことだが、とにかく一対であるべき両者が分離するということ、それが、「懐 […]
没後四百年を記念して京都国立博物館(および東京国立博物館)で長谷川等伯展が開催されている。なんとか最終日に足を運ぶことができた。京都にはあちこちに等伯があるが、一カ所でこれだけまとめて作品をみると、さすがに圧巻というか目 […]