弱者と苦しむ者について。「強者こそ守れ」と言ったニーチェの言葉は、高校のときに触れて以来、ずっと僕の心に残っている言葉だ。自分にわからない言葉があったら、それは幸運だ。問いの形で心に残しておくことができる。ずっと——つま […]
さて、夏休みが終わり、後期が始まる。忙しくなる前に思考しておこう。ジャン・ジャック・ルソーの社会契約論はリスボン大地震が大きなきっかけになっている。ヴォルテールの悲観主義に対して、ライプニッツの楽天主義を維持したルソーの […]
さて、結果には原因がある。この反省好きの人間のする遡行にもとづく必然性は、それほど正しいわけではない。両者の結びつきは、かなり曖昧なので、それについての批判は、科学であれ、人文学であれ、たえず必要だ。この批判、すなわち時 […]
ウクライナの情勢が大きく変化している。ローマ帝国に雇われた蛮族の傭兵がローマに攻め上る、という歴史はあったが、それを彷彿とさせる出来事ではある。しかし、そうした歴史の表皮を一枚めくると、やはり人間がいて、そこに安易な過去 […]
前近代において、隠す/露わにする、という行為は、宗教的・司法的にきわめて重要な意味をもった。隠れ・忍び・忌み・篭ることは、神的なものの付着を意味し、晒すことでそれは発揮され、失われた。「権利」なる近代的概念を前近代にその […]
さて、太陽のそそぐ灼熱が地上を分厚く覆っている。そんななか、選挙が近づいて、どこかの保守政治家が同性愛者について「人口生産論」的観点からなにか言っているようだが、まちがっているというほかない。同性愛も異性愛も、「愛」とい […]
現代の教師が苦悩しているのはまちがいない。責任の重い仕事であり、その重さのわりに社会的な敬意もなければ権利もない。前の世代の大人から、次の世代の子供から、もう四方八方から、社会の板挟みにあっている。 もとからわかりきって […]
さて、侮辱罪が改正され厳罰化された。匿名での誹謗中傷が問題になっているこのネット社会、刑法がそこに向かう必然性はわかる。 しかし、昨今の日本人は、どれほど金利を下げても借金しない国民であり、またいかにウイルスの勢いが減退 […]
自分は知性をためらうこと・思いとどまらせることに使用しない。一歩踏み出すために使用する。対話不能の恐ろしい狼がいるとしよう。自分なら、彼になお語りかけることに、知性を使用する。対話を思い止まらせるのは簡単だ。人間の不安を […]
「存在とは何か」というような哲学的問いにみえるもののほとんどは、ごく表層的な、生活を離れた不安の現れみたいなものだ。もちろん、出発点としての意味はある。その後の必死の生活のなかで、問いは深まっていくかもしれない。 幼年期 […]
年齢を重ねて、夏がどこか切ない、淋しいものになった。酷暑が、死を感じさせるのかもしれない。 青春の遠くなるのを感じるのかもしれない。戦争のこともある。 ◆ 海がみたい。死者の大地としての、大洋がみたい。 この夏は、北村透 […]
『存在の歴史学』の「あとがき」では別のことを書いたのだが、執筆中に考えていたのは、居場所のない、現代の若者たちのことである。いまはとにかく、海が見たい。それから、北村透谷の墓参りに行きたい。 ◆ 居場所のない現代の若者を […]
いつしか、「論争」に意味を見出せなくなってしまった。考えてみれば、それは、ひとが思っているよりもずっと奇怪なものである。自分が「論争」しないのは、勝っても(論破しても)、負けても(論破されても)、たいして面白くないからで […]
五輪の式典をまったくみていない(テレビをもっていない)。だから、語る資格はないのだが、想像はつくので、礼を欠くのを承知ですこし——要するに、日本社会のサブカル化と五輪について、である。 ◆ 自分はアスリートを心底尊敬して […]
オリンピックにかかわって、小山田圭吾氏の「イジメ」をめぐる問題について、しばらく考えていた。結論は決まっている。開会式の音楽担当を辞退するほかない〔注、このエッセイを書いたのち、実際に辞退している〕。作家の人格と作品とは […]
ドゥルーズは、たしかどこかで(『差異と反復』だったか)、思想家が本質的に孤独な独我論者であることに言及していた。たぶん、バトラーのエレホンを論じたくだりだったか。その近くでカントについても言及していた。デカルトの「我思う […]
今度の本の「あとがき」になにを書くべきか、つらつら考えている。前に、ヘーゲル・マルクス以来の「自由の歴史学」からの撤退戦として、「存在の歴史学」にいたった、と言ったが、それはすこし消極的な言い方だったかもしれない。端的に […]
博士論文を書くまでに、学生にはどうしても、人間的に成長することを自分に課して欲しいと思っている。大人になることと博士論文の期限とが、同時に来ると、一番いい。といっても、文献学の場合は、そうした成長をあまり必要としないのも […]
自分にしかできない仕事を。それを意識して書いたのが、今度の『存在の歴史学』。世間が自分の仕事をどう受け止めるのか、受け止められもせず、どこにもたどりつかないボトルメールになるのか。世間はともかく学界は? もっと期待できな […]
欲望を全面的に肯定する。かつて自由主義者と社会主義者とが世界を二分してやりあったような、社会的な対立もなければ、抑圧もない。だからひとは、身動きが取れないでいる。行動を促す動機がないのだ。あるのは、分厚い惰性の流れだけ。 […]
さて、若い人たちの自由を求める意識の希薄さに、戸惑うことがある。もちろん、歴史学という狭い世界の話だから、外ではちがうのかもしれない。勝手に決めつけないでくれ、と思っているかもしれないが、それでもあえていっている。ぼくに […]
マルクスは講義でちょくちょくやっている。彼の『資本論』も、第一巻は5回、6回と読んでいる。それほどの人物、それほどの思想だ。マルクスにおいて、一番重要だと自分が思う、思考の基礎はなんだろうか。 ぼくはもともと、現代性(モ […]
もし、自分が政治家だとしたら、民衆にむけて、なにを語るだろうか。 民衆に対して、民衆自身の感じている不安と孤独とに寄り添う、と語りかけ、その一方で、自由を愛せ、勇気を持て、というだろう。不思議なことに、歴史に対する自分の […]
もともと、前著『精神の歴史』のあとの研究テーマは、「自由」だった。卒業論文からして、古代ローマ共和政下における「自由」(libertasリベルタス)だったから、そのへんは一貫していた。なぜ「自由」だったか。 ◆ 歴史は、 […]
専門家には見えている、しかし一般のひとびとには見えないものがある。誰もが救いを求める危機的な状況にあって、専門家には、手を差し伸べないと生き残れないひとと、手を差し伸べなくても十分に生きていけるひとの差が、判明にみえてい […]
今日、周囲のどこをみわたしても、あるのはクラスターばかりであって、そのようにしてクラスターの内にいることで、個々の存在者は存在を維持している。自分はといえば、そうしたクラスター(島)のまわりを長い間漂流している。自分が歴 […]
いまになって思うことだが、一九六〇年代の欧米における、いわゆる言語論的転回を日本で受容した層は、まずまちがいなく「転回」など感じていなかった。歴史は科学か、という問いをつきつけたマックス・ウェーバーにはじまって、歴史は歴 […]
自分はテレビも見なければ新聞も読まず、当然、世間の情報に疎く、社会にはインターネットを通じてしか接し得ないが、重要なのは、ここでの言論がすべてと思わないこと。あらゆるメディアがそうであるように、人間そのものには間接的にし […]
存在は場所を必要とする。しかし、場所といっても、《大地》と《場所》とでは、まるで異なる。大地は、ある意味で、非=場所だ。位置決定から自由である。そこは旅の時空である。べつのいいかたをすると、前ー存在者のための場所である。 […]
英国民が、投票結果は賛否拮抗とはいえ、EU離脱を決めたとき、自分は膝を打った。「理念」に対する別の観点を示していたからである。たしかに戦後の理念、たとえば民族融和や自由主義崩壊の一局面にはちがいないが、そもそも理念とは何 […]