美容院に行った帰りに、今日が宵山だったことを思い出して、祇園祭をすこし覗く。すごい熱気、人、人、人。 御池から烏丸通を四条通に向かって歩くと、交差点が人だかりでとんでもないことになっている。疫病以来、こういうことを経験し […]
歴史とは、人間が自由に至る物語である。その点で、進歩の風を信じなければならない、ということでもある。われわれの世界は行きつ戻りつしながらも、とにかく前に進んでいる、ということがないなら、歴史という概念それ自身が失効してし […]
夢を見た。坂本龍一がぼくと手をつないでいる。彼は音楽のことを教えてくれる。ここはこう動く。あそこはこう動く。和声や対位法のレヴェルだけではなく、音そのものについても、いろいろ教えてくれる。だけどぼくは胸がいっぱいになって […]
さて、梅雨が早々に明けてしまい、一挙に真夏といっていい空がひろがっている。35度を超えているという。もうずいぶん暑いが、これからまだ気温は上がるだろう。 世の中を言葉で変えられるなら、なんだってしようと思っている。だが、 […]
さて、なかなか社会が好転しない。自分が戦える時間もあまりなく、焦りが募る。 歴史家として、人文学者として、われながら悩み多き日々を送っていると思う。日本の歴史教育は右も左もなく、たんに水準が下がり続けている。たとえば明治 […]
さて、『存在の歴史学』という矢を未来に放ったあと、手持ちの矢がなくなって、呆けている。また矢を作るところから始めなければならない。十年くらいしたら、また矢が撃てるだろうか。 このところ孤独になじみすぎて、言葉がうまく出て […]
《存在》とは、ひとつの「狂気」(フーコー)であり、あるいはひとつの「機械」(ドゥルーズ&ガタリ)である。反対にいえば、「狂気」とは《存在》のことであり、あるいは「機械」とは、《存在》のことである。『存在の歴史学』を書いて […]
戦後の人文学をふりかえれば、どうしても拭えなかったのが文献学的傾向である。デリダの「テクストの外部はない」という言葉のもつ異常な重みが、われわれを捉えていたと思う。存在から出発しない。文献から——アルシエクリチュールの重 […]
思考は地図である。 思考は思いとどまることや、ためらうこと、迷うこと、惑溺することとはいっさい関係がない。思考とは、地図を描くことであって、つまりわれわれの歩みを勇気づけるものである。思い思いの地図を片手に、われわれは旅 […]
最近、ブローデルよろしく「歴史入門」を書こうかな、という気にすこしなっている。歴史とはなにかについて、実際にものを書くのはもうすこし先のことかと思っていたが。どうかな?
われわれは転落の最中にある。もがいて浮き上がろうとしても、ますます落ちていく。 必要なのは、これ以上ないほどの深みに落ち切ることである。意外なことに、それでも生きている。あれほど恐れた精神の底で、しかし、身体は生きている […]
春。今年もやってくることに驚いている。疫病があり、戦争があったから、もうこのまま冬が続くんじゃないかと思っていた。今日昇った太陽が沈んだら、明日も昇るかどうか、そんなことまで信じられなくなるような、ひどいことがたくさん起 […]
『存在の歴史学』の「あとがき」では別のことを書いたのだが、執筆中に考えていたのは、居場所のない、現代の若者たちのことである。いまはとにかく、海が見たい。それから、北村透谷の墓参りに行きたい。 ◆ 居場所のない現代の若者を […]
「あとがき」を書きたいのだが、思考の底がささくれて整わない。昨日、酒を飲み過ぎて脳がイカれている。ブローデルが「歴史の母はテクノロジーだ」といったからだ。それでときどき思考がそっちに飛ぶ。歴史の父は、自由と、存在と……。 […]
商家に生まれたカミーユ・コローは、父から画家になることを反対されていた。それでも夢を諦めきれなかったカミーユは、ついに親元を離れ画家への道を歩み始める。それが相当な決意を要したことが、ぼくにはよくわかる。死んだ妹の結婚の […]
一昨日、車を飛ばして今年遷宮を迎えた伊勢神宮へ。二日かけて、外宮と内宮、そして伊雑宮をまわる。 神社の気に入っているところは、参道を歩くことである。寺院が提供するのは伽藍だが、神社は道しかない。ひとの目を楽しませる建築物 […]
車を飛ばして屋島へ。世阿弥は義経を主人公とする能の主題を「屋島」にとった。平家物語を読むと、義経の狂気を読み取らないでいるのはむずかしい。「修羅」とは、史上の英雄がときに陥る病である。彼は究極の平和を目指して飽くことなく […]
右や左の議論と完全に手を切ったのは、二十代最後の年だったと思う。ほんとうにどうでもよくなった。しかし、世間の問題は、出来事そのもの、歴史そのものとはほとんど無関係に、むしろそれについての左右両陣営の意見をもとに構成されて […]
今日も一日、編集作業。夕刻、懇意にしている美容院の予約がいっぱいであてがはずれた。突然時間ができ、知人を飯に誘ってみたが郷里だった。なんとなく駅でネクタイを買った。 真実と事実のちがいを知ることは、そんなに簡単ではない。 […]
台風が去って、盆の空気が肌にまとわりついてくる。盆の空気が好きだ。祭りのあとの夕暮れ、夏の空気がもう帰ろうとしているのはわかっている。だが、もうすこしだけ、たとえばあと一杯コーヒーを啜る時間くらいはいっしょに過ごしてもい […]
ソクラテスはいう。 一体、言葉で語られるとおりの事柄が、そのまま行為のうちに実現されるということは、可能であろうか? むしろ、実践は言論よりも真理に触れることが少ないというのが、本来のあり方ではないだろうか? 人はそう思 […]
右と左のどちらが現実が見えているか、という問いはけっこうな難問だが、わたしはそもそも、政治が「超」がいくつもつくほど嫌いである。わたしは、右でも左でもなく、イデオロギーなるものとは一切関係しない。ただ、言葉を発するのであ […]
世界はいつも、風評/リプレゼンテーションの薄もやに覆われている。ほんとうの世界が現れるのは長いまどろみを破る束の間の出来事だけ。多くは、自然がそれをもたらす。血や涙によってはじめてひとはそれに気づく。血や涙に言葉が先行す […]
ベートーヴェンの次の言葉が好きだ。「五十年すれば、ひとも弾く」。難解すぎて誰も弾かないと言われたピアノソナタに対して、己の作品を擁護したとき口をついたもの。彼の言葉がどれほどひとを勇気づけてきたことか。この世界は、社会に […]
ドゥルーズ=ガタリはこんなことを言っていた。 責任をもつとか、無責任であるとかいったことについては、私たちはそんな概念とは無縁だと申しあげておきましょう。責任、無責任というのは警察や法廷の精神医学に特有の概念なのですから […]
最近は、自分の立場をおもしろがることが多い。現政権のやろうとしていることに対して沸き上がる自分の複雑な感情が、社会における自分の居場所を奪ってしまう。この歳になって社会のどこにも精神の置き所が見出せていないのだが、それは […]
言語が現実と結びついていることの確かさを教えないなら、じきにひとは怒り方を忘れてしまう。シニシズムだけが蔓延り、そればかりか怒りのはけ口を誰に向けることもできず、無意識に不満を注ぎ込んで病を病むしかなくなる。怒りをもたら […]
歴史は美しい方がいい。しかし醜いものから目をそらすことがあってもいけない。歴史は事実からなる。しかし嘘を無視していいわけでもない。それさえ理解していれば、歴史は若者たちの自由になる。すばらしい歴史家の生まれる世界は、同時 […]
テクノロジーとアート、つまり記憶と忘却の狭間で、歴史になにができるかと考える。歴史を愛することは、嘘をつき、忘れもするひとの知のすべてを愛することでもあるはずだ。 久しぶりにプラトンを読んでいたら、いつのまにか眠りに落ち […]
新中納言、「見べき程の事は見つ、今は自害せん。」とて、乳人子の伊賀の平内左衛門家長を召て「いかに日比の約束は違まじきか。」と宣へば「子細には及候。」と申す。中納言に鎧二領著せ奉り、我身も鎧二領著て、手を取組で海へぞ入にけ […]