いつしか自分の頭に住みついた片頭痛が日曜日の深夜に勢いを増す。発作的に激烈な痛みと嘔吐に襲われる。ミシュレやニーチェのかかった病と同じなら少しは気は休まるが、肉体的にはこれまで感じたことのないほどの痛み。 日々の頭痛の種 […]
最近は本当に忙しい。定職があるわけでもなく、ただただ時間を労働に浪費する。これでは本当の仕事はなかなかできない。われわれのような貧しい立場の人間は、この社会で生きていくのは難しいに違いない。「違いない」と人ごとのようにい […]
文学は批評的なものであるという言葉は、戦後によく聞かれるようになった。それは間違いではないが、正しくもない。たとえば、ハイフェッツの “Criticism does not disturb me, for I […]
なんとなく、病気をすると、バッハを聴きたくなったりする。昔から音楽にすがってきた自分にとって、死ぬ時に聴く曲くらいは選びたいと思う。もちろん、死ぬというのは大げさだが、病気で肉体的に衰弱すると、ベタに「マタイ受難曲」など […]
夏の盛りに、本居宣長の墓を訪れた。 伊勢神宮を詣でた後、三重県の岬の突端、熊野灘と遠州灘の境目のところで東を望む。折口信夫は、南面すれば左側で、なだらかに曲線を描く水平線の向こうに、《常世》をみた。大和からみて、大和なら […]
このウェブをリニューアルしようと思っているが、なかなか思うようにいかない。ささやかなこの場所で、ささやかに知的活動をつづけているが、やはり、ささやかなものではあっても、自分なりによい場所にしたいとは思う。人生を振り返って […]
今日は白樺関連の展覧会があったので京都文化博物館へ。曇天のさなか、岸田劉生の美術・装丁をおおいに堪能した。自分は彫刻に関してはどうも古典礼賛から抜け出せなくていけないのだが、ロダンのよさも、すこしわかった気がする。途中、 […]
ブログを立ち上げてちょうど1年になった。カウンターはほぼ30000を数えているし、ユニーク数も6000を超えている。驚くべきことだと思う。 もともと自分は本をあまり読まないし、読んでも基本的につまみ食いしかしない。本を読 […]
政治が滅茶苦茶なことになっていると感じる。 法学的な観点やジャーナリスティックなセンスを持ち合わせていない素人であることを承知で、無責任にいえば、また概念の定義を広く見積もっていえば、小沢一郎の件は100パーセント国策捜 […]
一昨日、鎌倉は東慶寺を訪れたときの出来事。 まずは高見順の墓参り。相手が作家であると思うと、それも死人であればなおさら、こちらも裸にならざるを得ない。とりわけ彼の前では、隠し事はできない。自分でも思いもよらなかった言葉が […]
最近、坂本龍一を聴くことが多い。小さい頃からファンだった手前、坂本を聴いているときは、自分が「衰弱」しているときだと認識することにしている。 「衰弱」というとわかりにくい? 衰退といってもいいが、疲労ではない。没落でもな […]
ひとりの黒人男性がアメリカ大統領となった。すばらしいことだ。彼は、黒人、女性、性同一性障害者、すべてのマイノリティを演じることを、自ら引き受けたひとりの俳優となる。ギリシア悲劇において、《顔》も《仮面》も同じく「プロソポ […]
久しぶりに、ホメロスの『イリアス』(松平千秋訳、岩波文庫)を読んだ。ぼくがホメロスをはじめて読んだのは、中学か高校の頃だった。実家には、ギリシア悲劇の全集はあったが、ホメロスはなく、それで図書館で借りて読んだのだ。誰に薦 […]
中平卓馬という写真家がいる。1977年の9月11日、つまり今日からちょうど31年前に、アルコール中毒で倒れ、記憶や言語に障害を負いながら、今日もまだ、写真家でありつづけているひとである。ぼくが彼のことを知ったのは、一昨年 […]
京大の基礎物理学研究所の隣に湯川記念館がある。そこには、中間子の存在を理論的に予言した1935年の「素粒子の相互作用に就いて」の原稿やそこに至る計算が書かれたメモ、あるいはバートランド・ラッセルからの手紙(ラッセル=アイ […]
この夏、一番の思い出といえば、城之崎に行ったことである。家賃を納める際、毎月2000円余分に預ける、ということを続けていたら、それなりにお金が貯まっていたから、それで行った。城之崎行きを、印象深いものに変えたのは、やはり […]
オリンピックなどというナショナルな祭典は好きではないが、見ていると、スポーツの世界には、まだ、純粋なものがあると感じさせられる。純粋なもの――それは、自己に内在的な追求のこと。つまり、自己の認識を拡張すること。かつて、芸 […]
ウェブサイトを始めたのは1999年の暮れである(単位が足りず留年したので、まだ学部生だった)。その頃のものも、いくつか適当にピックアップして、ここにも載せようかと考えている。22、3歳の昔のものを読んで感じるのは、若気の […]
毎度自分のことばかりで恐縮だが、ゴダールの映画に出会えたことは、本当によかったと思っている。十代の終わりに、レンタルビデオ屋でゴダールの『気狂いピエロ』を借りて震撼させられて以来、いつも彼のことを考えていた。ゴダールの映 […]