自分は歴史を現在がこうあることの説明に用いようと思ったことは一度もない。通りすがりにしたこともあるだろうが、そこは目的ではなかった。つまり歴史は現在の《手段》ないし《原因》ではない。 歴史家が、その当然の権利で、歴史のみ […]
夢を現実に、といえば、それは許される可能性のある表現である。しかし、虚構を歴史にといえば、それは多くの場合に許されない表現になっている。たとえば天皇は神だといえば、それは虚構を事実かのように語ることであり、許されないこと […]
(注記。22歳のときに書いた卒業論文である。) 序 古代共和政ローマの年代記を紐解くと、そこに連綿と連なる身分闘争の縦糸を感ぜずにいられない。年代記の描くローマ共和政時代の歴史から、我々はおのずとヘーゲルやマルクスの言う […]
自分は歴史学に過剰な期待を抱いているのかもしれない。なにより、歴史学者の謙虚さが歴史にまで及ぶのは避けるべきと考えるひとりである。実際、歴史学者は謙虚だ。しかし、その謙虚が歴史そのものの卑下になっては元も子もない。歴史と […]
奈良で帝冠様式といえば旧国鉄の奈良駅舎だろうか。ファシズム建築として悪名ばかり高いが、隣にある現代の駅舎のほうがマシといえるかどうか。 ◆ 学問の改革はむずかしい。たとえば歴史学なら、実証主義を批判する改革者の努力は、主 […]
雨は嫌いじゃない。とくに音が好きだ。子供のころ、雨が降った日に遊ぶ友達がいたのを思い出す。彼の家で、ずっと絵を描いてすごすのだ。雨で行動が制限されても、画用紙が扉になって、別世界が広がるから。運動が苦手で、絵が得意な少年 […]
最近、シャルル・ペギーの『クリオ』を(いまさら)学生といっしょに読んでいる。この本のサブタイトルに「対話」という言葉が使われているが、E・H・カーの用いているそれとは、語の意味がまったく異なることに、読者は気づくだろう。 […]
歴史はいい。ぼくは人文学をしていないと、つまり人間について考えていないと生きていけない、そういう人間だ。人間について考える、とは、哲学すること、文学することだが、その土台になるのが歴史であり、また哲学や文学が帰っていく場 […]
ぼくらは、徹底して、公共的なものの外で思考する必要がある。 さかしらに公共性を論じることは、当の議論そのものが公共道徳の海に溶解してしまう可能性と秘密裏に取引することだ。波紋はすぐに消えてしまう。公共性を論じる人間は、そ […]
旅に出て、そこで写真を撮って帰ってくる。それもまた、今日的な旅の形ではある。前近代においてひとは旅先で歌を歌い、あるいは日記を綴った。二度と見ないかもしれない景色を写真に収めることも大切である。だが、じつは、その景色をみ […]
時代区分とは何だろうか。 歴史学者の縄張りみたいなものだろうか。あるいは、協同を前提にした、一種の分業のようなものだろうか。さもなければ、ひとりひとり専門領域をもつ学者に対する遠慮が形づくっているのだろうか。現実的には、 […]
かつてジャック・デリダは、「責任」の概念のヨーロッパ的・キリスト教的起源について語っていた。われわれ日本人が世界に求められているのは、この意味での「責任」である——すなわち、禁断の果実を食べて得た「知」それ自体が、人間の […]
言語論的転回以後、歴史の実証主義や構成主義は、どこに向かっていくのだろうか。じつはどちらも歴史をどう認識するのか、というタイプの議論である。したがって、歴史は認識における弁証法作用の起点でしかなくなる。要するに、それはテ […]
酒に対いては当に歌うべし/人生幾何ぞ/譬ば朝露の如し…… ◆ 人間の歴史を美しくと思えるようになって、ようやく出口を見つけたが、思いがけず、孤独な場所に出てしまった。しかし、よくみると、みんないる。しかも前方に。ニーチェ […]
歴史家が向き合ってきたもの、それは瓦礫である。一般に、歴史家が扱うのは文献である、と考えられている。ならば文献と瓦礫とが同じものだと、この書き手は言おうとしているのかと、読者は疑うかもしれない。もちろん否である。瓦礫、そ […]
歴史が《星座》の貌をしていることを発見したのはヴァルター・ベンヤミンである。イマニュエル・カント以来、言葉と言葉とをつなげることのうちに、多くの近代の歴史学者は因果律を見いだしていた。だが、それを因果律と呼ぶのはすこし行 […]
ものや出来事の起源を、あるいはそこにそれがありまたそれが起きることの必然性を、ひとはたどりたがる。このようなひとびとの思考は、かならずどこかで択一を強いる二つの選択肢にたどりつくだろう。すなわち、起源や必然性を可能にして […]
孤塁を守る高貴な人たちがいる。国際的にも国内的にも、孤塁を守る人たちが、大群をなしているひとたちに閉鎖的といわれ、無防備なまま開放させられる。そんな社会になりつつあるようにみえる。辺土で大切に守られてきた、あるいはなんら […]
天から降りてくる無数の雫。漏斗としてのわれわれ(1)は、そのいくつかはあふれさせながらも、いくつかを受けとめることに成功した。受け止められた雫は滞留しながら中心に向かってゆっくりと流れ、次第に速度を増して大地に落ちるだろ […]
フロイトは有機体をモデル化する際、刺激受容体としての未分化な小胞のようなものを原有機体として採用した。このモデルにおいて表皮は「刺激保護」=感覚器官をなし、表皮を透過した刺激は内部に痕跡として蓄えられていくことになる。そ […]
今日、哲学、歴史学、そして文学の世界で、幅を利かせているのは一種のピュロン主義者たち、すなわち判断中止(エポケー)学派の群れである。たとえば、柄谷行人は教える、判断中止こそ、彼のいう「他者」へ至る至高の道のりである、と。 […]
歴史を生業にする者にとり、過去は偉大である。ときに圧倒的な尊敬の対象である。だから、史料を読むとき、批判から始めることはない。歴史家の前に、過去は問答無用の確信を迫って現れる。《常識》が遠ざけたがる奇妙な記載は、本当に不 […]
文献学者が日々量産しているカント主義観念、すなわち原因―結果の観念は過去をどんどん遠い彼方へと送り返している。なぜなら、原因とは、結果ではないからだ。原因と結果の両者は手をつないで、交わることなく、弁証法という名の楕円を […]
国家の起源をいかに語るか、について、すこし考えておこう。その場合、重要なのは、純理論的な意味での、歴史と世界史のちがいである。「歴史」(国史)の条件には、ヴィルヘルム・ディルタイが言っているように、歴史を語ろうとする主体 […]
いくらか専門的な話になるが、眠気と酔いにまかせて今日はつまらない話をしよう。この現象は、日本の特異な言説空間をよく示しているといっていい――日本の実証主義の構造についてである。構造――構造というのは正確ではない。もっと、 […]
歴史にとって出来事とはなにか……。この問いに答えるのは容易ではない。わたしはもはや、歴史にはうんざりしているのだが、それはこの装置が徹頭徹尾反復の装置だからである。たしかに、最初の反復には意味がある。意味……。いい加減勘 […]
ウィリアム・バトラー・イェイツの著名な詩、「学童たちのあいだで(Among School Children)」の最終行に、次のような一節がある。 How can we know the dancer from the d […]
暴力と自殺とは、きわめて密接に結びついているように思われる。自殺は、暴力の一種であり、とりわけ自己に向かうことで《関係》を破壊するような暴力である。自殺者は、いったい、何を主張しようとしているのか。暴力が、《関係》を破壊 […]
「歴史から可能性を見出そうと思っている奴の鼻をへし折るってやるためだ」。これは、なぜ歴史を学ぶのかと問われたときに、ひとが答えるべき攻撃的な解答である。実際、本当の意味での歴史家は、歴史の可能性をしらみ潰しに潰していく人 […]
B:では、真実と歴史学が、別々に存在しているという、君の考え方は、いったいどこから来ているのだろう? A:それは……当然のことだと思います。学問は、問いですから、答えを目指すものです。そして、学問 […]