《関係》は切断したり、接続したりできる。だが、切断するだけで関係から逃れられると考えるのはまちがっている。接続や切断自体、きわめて情報工学的な、関係概念に包摂されるものである。こうした接続や切断が哲学であるためには、《関 […]
秋のやわらかな日差しがカーテン越しに。鳥の歌声が右に左に——。 学問において、なにかを認識する、ということは、とても大切なことである。それどころか、避けて通れないものだ。 しかし、認識する、という態度それ自体が、対象を変 […]
生物学者の高木由臣によれば、たとえばバクテリアは死ぬ能力をもたない、死ぬことができるのは有性生殖をおこなう生物のみ、すなわちDNAのやりとりによって親と異なる遺伝子個体を生むことのできる生物だけである、という。 そこから […]
偶然と必然の織りなす歴史の荒波をわたって、よくぞ戒律なき土地へやって来た。失明した鑑真にずいぶん立派な寺院が用意されたが、海を越えることを生と決めつけた彼には、その後の時間も寺も、すべては過剰なものだったろう。だがその過 […]
物体をどこまでも分割していく。するといずれは、これ以上は分割できない小さな物体があらわれるだろう。それをデモクリトスは《原子》といった。これは哲学上のひとつの立場であって、無際限に分割できるという立場もありうるが、ともか […]
独白とはなにか。この奇妙な言葉について考える際に重要なことは、ある観点をこの問いに紛らせないことだ。すなわち、社会である。つまり社会化されない言葉は、すべて独り言である、と考える立場である。たとえ複数の人間のあいだでかわ […]
黄砂のなか尾道を旅した。志賀直哉に会いに出かけたのだが、それ以上に、いま日本で起きている騒動が重なった。瀬戸内のあのあたりは元来災害の少ないところときいている。だがもし津波がくれば、あの不思議なまちは元通りにならないだろ […]
原子炉のなかに、「安全」という名の猫がいる。原子炉を開けることはできず、開くとすれば、原子炉が事故で爆発するときだけだ。さて、「安全」はこの原子炉のなかで生きているだろうか、それとも死んでいるだろうか。もちろん、中を開け […]
アナーキストに保守主義や貴族主義を見出すタイプの議論がある。たとえば、芥川龍之介の大杉榮評がそうだった。彼は大杉の死に対して、冷淡なコメントしか述べていない(作家のなかでは、いうなれば貴族である志賀直哉は多大な同情を寄せ […]
人間の本質的非対称性について、ヘラクレイトスの徒であるニーチェは考える。同じものはなにひとつない。ゆえに似ている、似ていないと言葉を弄することも、究極的には詮なきことだ。なにひとつ交換可能なものはなく、またなにひとつ対称 […]
対象と真に関わろうとするならば、あらゆる関心、欲望を捨て去らねばならない。女性のもつ真の美を求めるのであれば、性的な欲望は慎むべきだ。欲望が映す美は、真の美ではない。欲望を対象に投影しているにすぎない。あらゆる雑多な関心 […]
自然は固定観念をもっている。たとえば太陽は東の空から昇って西の空に沈み、蝉は夏の盛りに啼く。夜の終わりに覚めて昼の終わりに眠り、赤信号で足を止め生まれそして死ぬ。 自然界は、いわば固定観念の束である。羅針盤の針が北を向き […]
ジャック・デリダの脱構築déconstructionについて、あるいはその主要な駆動装置となる差延différanceについて、いま、ひとはどのように考えているのか。20世紀後半から今日に至るまで、これらの概念(デリダは […]
社会が悪いのではない、己が無力なだけだ……。社会に認められようともがく若者は、社会に貢献できていない現状を気に病みながら、社会ではなく己の才能が足りないのだというもっとも不愉快な解決法に満足せざるをえない。己が認められよ […]
「懐疑」とはなにか――。自分のみている女性が、知っているあの女性ではないかもしれぬと考える。表象と概念の分離といっても、対象と表象の分離といっても同じことだが、とにかく一対であるべき両者が分離するということ、それが、「懐 […]
小林秀雄は、かつて「どんなに正確な論理的表現も、厳密に言へば畢竟文体の問題に過ぎない」(『Xへの手紙』)と語り、文学の本質を文体に求めていた。当然、芸術の本質は「フォーム(姿)」(「美を求める心」)にあると考えられた。文 […]
文学や歴史はぼくらとは違う時間を生きている。文字といっても生きている。音声中心主義を批判するひとたちは、死んだ文字を相手にする。だけど、筋金入りの音声中心主義であるぼくらは、文字も声と同様に生きていると考える。それは、ソ […]
わたしはプラトンの『パイドン』を、若い頃から愛していた。この感動的なテクストは、次のように始まる。処刑が決まったものの、ちょうどデロス島で行なわれる祭礼と重なったために、執行が延期になり、ソクラテスは牢獄でいくらか余命を […]
ニーチェは、『楽しい科学』のなかで、「忘却の音楽」について語っていた。たしか、彼はそこで、芸術を二つに分類していたはずだ(不確かな書きかたをするのは、いま手許にこの本がないから。今月二度目の満月の光を浴びながら、これを書 […]
アレゴリーから小説へ。文学の歩みにおけるその日付を明示したのは鬼才ホルヘ・ルイス・ボルヘスである。彼は言う。 アレゴリーから小説へ、種から個へ、実在論から唯名論へ――この推移は数世紀を要した。しかも、わたしはあえてその理 […]
人類史上最初の観念であるように思われる、《神》。それは、言い換えれば、無を超えて不在を思考することである。観念がなんらかの実在と結びついているかぎり、それはけっして最初の観念とはなりえない。《実在という外部からの刺激》に […]
パウロの弟子ディオニュシオス・アレオパギタ、あるいはネオ・プラトニズムを信奉する人たちによって、神は肯定の世界から取り除かれ、否定の祭壇へと祭り上げられた。《神はいない》。存在の影としての神。この影が世界を覆い尽くしたと […]
ひとが作り出したもっとも古い観念のひとつに《神》がある。《神》は実在するのか、しないのか。それとも、《実在》という語がそぐわない、ある種の超越それ自体を指すのか。実在や経験、あるいは精神や観念、そしてそれらすべての超越者 […]
荘子の言葉をもう一度引用する。 荘子が恵子といっしょに濠水の渡り場のあたりで遊んだことがある。そのとき荘子はいった、「はや(魚)がのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」ところが、恵子はこういった、「 […]
嘘とはなにか。そしてまた否定とはなにか。嘘と否定とは、よく似ている。実際、区別するのはむずかしい。したがって、ありきたりの仕方で両者を区別しようとは思わない。たとえば、次のような文章があるとしよう。 《私は犯人ではない。 […]
「無知の知」というソクラテスの言葉がある。この言葉には、人間は有限の生き物である、という認識の重要性と同時に、有限なものを超えた無限なものに対して人間が抱く意志が含まれている。「知る」ということが、本質的に有限であるとこ […]
命題A:「わたしは嘘をついている」。この命題が真なのか偽であるのかを、内在的に証明することはできない。この自己言及的な「嘘つきのパラドックス」を起因として、ゲーデルに導かれ、ある種の数学基礎論―ヨーロッパ的合理主義の極致 […]
物自体とその表象、という二重体において世界を思考するやり方、リプレゼンテーションの問題は、もちろん、今日われわれの社会で運営されている議会制民主主義Representative Democracyと呼ばれるものの問題と切 […]
数学は、自身の中に虚数imaginary numberを組み込むことにすでに成功している(イマジナリーと呼んだのはデカルトだが、この命名は今日ではあまりよくない)。現実にはありえないとされるにもかかわらず、すべての二次方 […]
平行線の定理が世界を論じる際に必要ないことに勘付いた近代の科学者たちは、そのとき、すでにその手に絵筆を握っていた。世界は、線分でできているのではない。色彩によって実現されているのだ。彼らはそのことに気づいた。だが、今日、 […]