芸術は、いったい、なにを行なっているのだろうか。プラトンの言うような、自然の模倣? それとも、アリストテレスの言うような自然に《対して》虚構を作りあげること? どちらも、それほど正しくない。それに、この問いにかかわってい […]
五月革命以降、一九七〇年代を前後するわずかな期間に、フランスには哲学の帝王が君臨していた。ミシェル・フーコーである。もちろん、帝王という用語には注意せねばならない。というのも、後世の歴史家に誤解を与えてはならないからだ。 […]
ニーチェというひとりの人物が成長し、文献学者から哲学者へと変貌する姿は、ぼくたちを感動させる。そこには、なにひとつ無駄なものはない。そうした成長の物語――ひとりの独身ドイツ人の伝記作品を、ニーチェの生涯に見ることは、もち […]
ぼくは、ニーチェほど不器用で、そして真っ直ぐな人間を知らない。端的に、崇拝するアイドルのひとりだ。彼は真っ直ぐであることにナイーヴで、そして勇敢だった。ぼくたちには、彼の書いたものは、ときに、あまりにもひねくれて見える。 […]
前にいったように、最近はずっと湯川秀樹のアルシーヴに塗れている。生々しく殴り書きされた古ぼけた紙に、「β崩壊」であるとか、「相互作用」であるとか、「宇宙線」であるとか、あるいはその他諸々の数式であるとか、そうい […]
古代ギリシアはキオスのストア派哲学者、禿頭のアリストンは、こう言ったという。 最良のもの(徳)と、最悪のもの(悪徳)とについてだけ関心をもち、その中間のものにはどちらでもない態度をとる。それこそ、人生の目的(テロス)であ […]
いつしか、わたしは不思議な感覚に囚われるようになった。それは、歴史よりも、文学のほうが、大きな概念なのではないか、ということだ。なぜ、ホメロスは、歴史家ではなく、文学者と呼ばれるのだろうか。『イリアス』は、なぜ、歴史書で […]
さて、わたしは、言葉は、《力》だと考えている。先の自己対話的エッセイにおいて、完全にAの主張に同意する。言葉は不完全であるとか比喩であるとかいったBのような思考にはうんざりしている。ニーチェは「権力への意志」について語っ […]
A: 言葉は無力である、とあなたは言った。 B: そうだ。言葉は無力だ。言葉は、本質的に、比喩なのだ。レトリックといってもいいし、現実のまとうリプレゼンテーションといってもいい。ただし、リプレゼンテーションは、じつは、現 […]
かつて、プラトンを批判すれば、なにがしかのものを言ったことになった時代があった。プラトンのようなイデア論を批判すれば、それだけで、形而上学を哂う悦ばしき唯物論になりえたのだ。たとえば、柄谷行人の『隠喩としての建築』という […]
デカルトの《コギト》。これについては多くのひとが少しは聞いたことがあるだろう。わたしがこれから語ることは、読者にそれほど理解されないだろうし、きっと誤解されるだろう。そもそも、読者に余計な期待はしていないつもりだが、問題 […]
声と文字、このありふれた二つの《人間的》ツールについて、少しだけ考えをめぐらせてみよう。 声と文字は、ともに他者とのコミュニケーションのツールだが、その違いはなんだろうか。コミュニケーションのツールという点でこれらを比較 […]
人間には、不在のものを現前させる《力》が二つある。それは、想像力と記憶力である。もちろん、これらは、内在的には区別できない。記憶力のまったく介在していない想像力は成立しえないし、またその逆も成立しえない。両者は混在してい […]
古代ローマのストア派哲学者であり、劇作家であり、また皇帝の家庭教師でもあったセネカは、学問についての二つの大きな区分に注意を促している。《文献学》と、《哲学》とである。ギリシア語でいえば、前者はフィロ‐ロゴスであり、後者 […]
わたしたちが普段何気なく、そして区別しつつ用いている言葉に「想像力」と「記憶力」とがある。いずれにしても、不在のものの現前という意味では同じものであろう。いまここにないものを現前させる、そうした力こそが、この二つに割り当 […]
言葉は、それが言葉であるかぎり、きっとなんらかの対象を持っているはずである。対象というのは、要するに、出来事であるとか、物であるとか、そういうもののことである。たとえば、「海」という言葉は、現実の《海》を指示しているはず […]
わたしはいまのところ歴史学者のはしくれであって、別に哲学研究者ではなく、最新の研究動向も知らなければ、そうした能力も時間も欠いているのだが、それでもやはり、最低限カントくらいは読むし、無責任な、かつ自分なりの読解がある。 […]
わたしたちは、簡単に「記憶する」、とか「忘却する」とかいう用語を使う。これらの用語を並べて用いるとき、当然、「善」と「悪」同様、両者は概念としては対立しているように思われる。したがって、ジャック・デリダやハンナ・アーレン […]
暴力について、もう少し考えてみよう。 暴力は、権力や重力などと同様、その名の通り《力》の一種である。《力》とは、複数の項を結びつける(あるいは遠ざける)《関係》の、作用的側面を指していわれる言葉である。逆に言うと、《関係 […]
ベンヤミンは、その著書『暴力批判論』において、対立する二つの概念として、「神話的暴力」と「神的暴力」を挙げている。前者は法を措定し、維持する暴力だとすれば、後者は法を破壊する暴力である。ベンヤミンは、もちろん、後者につい […]
さて、少々込み入った哲学的レッスンを、私自身に課してみよう。 「自己嫌悪」というものがある。たとえばこうだ。「どうして私はこれほど駄目なのだろう!」 こうした嘆きには、誰しもが囚われるものであり、かくいう私ほど、この嘆き […]
今日、わたしたちが直面しているのは、人類は《炎》を捨て去ることができるのか、という問いであるように思われる。たとえば不運なハイデガーの語った《炎》は、ユダヤ人を焼き尽くそうとしてナチスの放った炎と、結果的にはほとんど同義 […]
世界は、今も、ストア派のひとたちや、カントの言った「世界共和国」に向かってまい進している。世界は可能なかぎり最善の秩序において構成されている。世界理性というものがあるとすれば――それは、すべてを《緩慢に》焼き尽くす炎だ。 […]
カントによれば、純粋理性は次のような道のりをたどる。(1) 独断的理性、(2) 懐疑的理性、(3) 批判的理性、である。これらについて、わたしなりに解説を加えてみよう。 (1) 独断的理性 たとえば神や、あるいは自己の […]
柄谷行人は次のように言っている。 カントによれば、統整的理念は仮象(幻想)である。しかし、それは、このような仮象がなければひとが生きていけないという意味で、「超越論的な仮象」です。カントが『純粋理性批判』で述べたのは、そ […]
今日、その名が名指しされるか否かは無関係に、ある勢力が瀰漫している。それは、新しいカント主義者たちの勢力である。 かつては新たな経験論の到来としてあれほどにさかんに謳われもした、ジャック・デリダの《脱構築》は、いつしかア […]
死んで会えなくなることと、遠く離れていて会えないこととは、同じであるように思える。 ……こんなことを言うと、死をあまりに軽視していると思われるかもしれない。たしかに、身体的な死は重要である。なぜなら、もう会うことはできな […]
歴史とは、何か。つきつめていえば、それは、過去を現在に回収する装置である。もっと端的にいえば、過去を現在に変える装置である。歴史の装置は、だから、過去ではなく、《現在》に置かれている。純粋に過去そのものであるような歴史は […]
これは何の記号だろうか……。こんな登場人物がここに存在してよいのだろうか。こんなものは、今の今まで、どこにも現われたことがなかった。お前は誰だ? “a”の痕跡。少なくとも、わたしは覚えていない。どの登場人物が、“a”に変 […]
文字の方がひとりでに話し出す。だから、それを代弁してやるナレーター=歴史家の必要はないという。本当にそんなことがありえるのだろうか。然り、それがミシェル・フーコーの言表(エノンセ)である(1)。じつは、言表は、デリダの言 […]