一度にたくさんのことを言ったり書いたりすることはできない。こうして、ひとは、時間や空間の存在することを知るのだが、ともかく、この時間や空間のせいで、たくさんのことを語り残した。思えば、かつてわたしのものだった言葉から、ひ […]
ふと、オヴィディウスの『変身物語』のことが浮かぶ。神の表象について考えてみよう。 ふつう、考えられる神の表象パターンは、三つある。ひとつは、怪物として描かれる神である。すなわち、三本以上の腕、三つ以上の眼球、二つ以上の顔 […]
《戦争》について、少し考えておきたい。書きながら考えるので、おそらくまともな文章にならないことを断っておく。 さて、まずこの場合、問わねばならないのは、“《戦争》とは何か”、という問いがそもそも立てられるか否かである。一 […]
現象はそれ自体として物ではないから、現象を表象として規定するためには、現象の根底に物自体が存しなければならない。(カント『純粋理性批判』) わたしはカントのような見方をしない。つまり、視覚などの諸感覚によっては認識不能の […]
プラトンは、弁論術――あるいは語ることと書くことについて述べた著作、『パイドロス』において、ソクラテスにこう語らせている。 ソクラテス このぼくはね、パイドロス、話したり考えたりする力を得るために、この分割と総合という方 […]
《節制》(ソフロシュネー)は、生の過剰を《肯定》したニーチェが批判していたように、悪しきプラトン主義の産物なのであろうか。否、けっしてそうではない。おそらく、この考えは、時代とともに、あるいは政治とともにある。過去にウェ […]
柄谷行人は、デリダを批判する際、よくこのように言う。デリダは、音声中心主義を批判するとき、プラトンにまでさかのぼってこれを説明しようとする、このことは、音声中心主義がヨーロッパに固有の問題であるように見せ(ヨーロッパ中心 […]