ディミトリス・パパイオアヌー“偉大なる調教師”を鑑賞に京都はロームシアターへ。 ◇ 今、ぼくは日本の天皇を論じようとしている。この課題が自らの身体をはるかに超えることはあきらかだが、その課題と同じかそれ以上に大きな課題に […]
ゴダール最新作を観に京都へ。 ◆ いまや彼も八八歳である。思えばその処女作からこの最新作にいたるまで、彼は一貫して、映画の根源から、世界にメッセージを発してきた。イメージがもっている純粋さにひきかえ、汚れたもの、濁ったも […]
いま、京都で東山魁夷展が開催されている。 東山魁夷は戦後最大の画家のひとりであり、またこれほどの個性を内に秘めた画家もめずらしい。日本ではきわめて稀な存在であり、やはり画家中の画家といってもいいはずのものだ。 内に秘めた […]
四年にわたる修復作業を終えた、名高い當麻曼荼羅をみに奈良国立博物館へ。 ◆ 中将姫の伝説は多くの者が知っていよう。「日本無双の霊像」と呼ばれたこの曼荼羅は、姫が蓮糸を用いて一夜にして織り上げたといわれる阿弥陀浄土をあらわ […]
かつてはいまの倍の長さのあったと記憶する、梅田の地下道を通り、ジャン=リュック・ゴダールの最新作、『アデュー・オ・ランガージュ』(邦題『さらば、愛の言葉よ』)を鑑賞した。 ゴダールの映画は、つねに「映画とはなにか?」とい […]
自分は、コンセプチュアル・アートにブラインドである。 ◆ ある言語的なもの=概念conceptをなんらかのオブジェで代理=表象representさせるやり方は、自分には間遠くみえる。それなら、言葉で説明したほうが早いので […]
昨日はどしゃぶりの雨のなか、京都市美術館で開催されているバルテュス展へ。 バルテュスは本名をバルタザール・クロソフスキー・ド・ローラといい、『ニーチェと悪循環』の著者、ピエール・クロソフスキーの弟である。ピカソにより「二 […]
瀬戸内を旅した。抜けるような青空。空と同じ色の海面。日差しの焦がした肌を波の飛沫が濡らす。空にせよ海にせよ、両者の境界を時折横切っている島々の緑にせよ、恐ろしく単純な色彩が刹那の感を漂わせてかえって切なくさせる夏の一日。 […]
没後四百年を記念して京都国立博物館(および東京国立博物館)で長谷川等伯展が開催されている。なんとか最終日に足を運ぶことができた。京都にはあちこちに等伯があるが、一カ所でこれだけまとめて作品をみると、さすがに圧巻というか目 […]
春に東京、秋に神戸で行なわれていたコロー展のカタログを手に入れた。それを読むと、彼を評価する過去の芸術家のさまざまな言葉を見つけることができる。それを紹介する文章を適当に引用してみよう。たとえば、エミール・ゾラ。 もし彼 […]
いま、神戸市立博物館でコロー展が開催されている。十九世紀フランスを代表する画家であるジャン=バティスト・カミーユ・コローといっても、知っているのは名前くらい、かの「真珠の女」でさえ、かつて教科書で見たかどうか、あるかなき […]
京都文化博物館で、「川端康成と東山魁夷」と題する展覧会が催されている。わたしは、絵を描くのはきらいではないが、音楽に比しても余計に素人である。とりわけ日本画についてはほとんど知識に乏しいし、美術史的な観点ももっていない。 […]
この書は、もとは一九八〇年代初めに出て(その後著者の意志で絶版、原型は『内省と遡行』に見ることができる)、一九九二年にArchitecture as a metaphorとして英訳されたものに大幅に加筆され“定本”として […]
先日、大阪市立美術館で開催中の円山応挙展を訪れる機会を得た。 わたしには、とくに日本画の知識はない。しかし、画聖といえば、普通は応挙を指したはずだし、また、同時代――つまり化政文化時代の代表的作家である歌麿や写楽、北斎ら […]
名前だけならほとんどの日本人が知っているだろう、チャップリンだが、しかし、作品の彼を実際に観たことのある人間は、ずいぶん少なくなっているかもしれない。わたしも『独裁者』をレンタル・ヴィデオで観たくらいで、それ以外は断片的 […]
世界救世経から分離した神慈秀明会の本拠に隣接するMIHOミュージアム(滋賀県信楽)を訪れる機会を得た。わたしは基本的にローマ人と同じで、「わたしは無宗教である」と語る必要を感じないほどに無宗教の人間であり、ましてや新興宗 […]
この作品をもって、鬼才ベルトルッチは巨匠となり、坂本龍一は名実ともに“世界のサカモト”となった。 個人的述懐だが、わたしがこの作品に触れた最初は小学生のときに聞いた音楽においてだった。母がテープでこの映画のサウンドトラッ […]
1980年代日本映画の金字塔。作品の叩き台となった「サラサーテの盤」の原作者である内田百?は、ある特異な系譜に位置する作家である。とはいえ、作品のクレジットに原作「サラサーテの盤」と書かれているが、たんにそれだけが題材に […]
京都国立博物館にて、「空海と高野山」展が開催されている。真言密教の開祖、空海の思想は、このような言い方が許されるなら、南都六宗などいわゆる顕教のエクリチュール中心主義に対して音声中心主義を基軸としている。こうした音声中心 […]
ダニエル・リベスキンド展。広島。 ポーランドはウーチに生まれた建築家、ダニエル・リベスキンドは、ベルリンのユダヤ博物館においてその名を世界に知らしめた。もはや忘却の穴へと落下しつつあるホロコーストの記憶を、彼は鋭角の折り […]
スピルバーグ得意のSFファンタジーもの。本作は最近亡くなったスタンリー・キューブリックにささげられている。 期待せずみたが、なかなかおもしろかった。期待した鑑賞者は多かったかもしれないが、期待に答えうる作品であったかどう […]
某所の映画館でアニエス・ヴァルダ監督作品、『落穂拾い』を鑑賞する。ミレーなどバルビゾン派の絵画に多くみられる落穂拾いの主題から着想を得て撮られた、ドキュメンタリータッチのロードムーヴィーである。齢七十台半ばを迎えんとする […]
ふりしきる雨と強風を避けるようにして、高橋悠治のピアノリサイタルを聴くため大阪(石原ホール)へとむかう。客席はほとんどすべて埋まっていたものの、運指やペダリングなどその演奏振りをしっかり見ることができる、前から三列目の向 […]
昨日、雪舟展を開催している京都国立博物館を訪れた。わたしは絵画をあまり観ない。それはとくに興味がないということではなく、単に文化的行事にアンテナが立っていないのである。したがって、気づいたときには手遅れ、ということが多い […]
中世以来の貴族の息子イジドールは、盛り場の歌姫パロマを見初め、無限の愛を注ぐ。病で医者から余命わずかであることを告げられたパロマは彼の愛人となり、結婚するも、彼を愛することはなく、イジドールの友人、ラウルと一夜をともにす […]
台湾には、今日でも、戦前から居住する本省人と、戦後に中国大陸からやってきた外省人とのあいだに根深い対立がある。歴史的に言えば、日本の敗戦・撤退の後、一九四八年二月二八日、外省人は、本省人の弾圧を敢行した経緯がある。この、 […]
昨日は、京都コンサートホールでグスタフ・レオンハルトによるチェンバロのリサイタルがあった。レオンハルトといえば、世界最高のチェンバロ奏者のひとりであり、映画『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』(ストローブ&ユイレ監督) […]
再び、颯爽とアファナシエフは登場した。低い椅子に彼の痩躯(そう見えた)を埋めて、譜面台の上にそっと手を置く。瞬時に彼の周りの空気が醒めていくのがわかる。静謐とした冷気が彼を包み込む。そうして、昨日と同じように、また不意に […]
彼は颯爽と登場した。そして、低い椅子に座り、彼が鍵盤に向かうやいなや、彼の周りにできたわずかな空気の隙間に、静寂のヴェールが浸入する。聴衆は一気に緊張の度を高める。彼は、おもむろにかなり高い位置に両手をあげ、その手を、鍵 […]
東風と西風。かの5月革命の影響のなか、JLGを中心とするジガ・ヴェルトフ集団によってつくられたもっとも美しい闘争映画のひとつ。政治的西部劇の自己批判といった形で展開する本作は、「二つの戦線を同時に戦う」「造反有利」という […]