夏の盛りに、本居宣長の墓を訪れた。 伊勢神宮を詣でた後、三重県の岬の突端、熊野灘と遠州灘の境目のところで東を望む。折口信夫は、南面すれば左側で、なだらかに曲線を描く水平線の向こうに、《常世》をみた。大和からみて、大和なら […]
歴史を生業にする者にとり、過去は偉大である。ときに圧倒的な尊敬の対象である。だから、史料を読むとき、批判から始めることはない。歴史家の前に、過去は問答無用の確信を迫って現れる。《常識》が遠ざけたがる奇妙な記載は、本当に不 […]
アレゴリーから小説へ。文学の歩みにおけるその日付を明示したのは鬼才ホルヘ・ルイス・ボルヘスである。彼は言う。 アレゴリーから小説へ、種から個へ、実在論から唯名論へ――この推移は数世紀を要した。しかも、わたしはあえてその理 […]
人類史上最初の観念であるように思われる、《神》。それは、言い換えれば、無を超えて不在を思考することである。観念がなんらかの実在と結びついているかぎり、それはけっして最初の観念とはなりえない。《実在という外部からの刺激》に […]
パウロの弟子ディオニュシオス・アレオパギタ、あるいはネオ・プラトニズムを信奉する人たちによって、神は肯定の世界から取り除かれ、否定の祭壇へと祭り上げられた。《神はいない》。存在の影としての神。この影が世界を覆い尽くしたと […]
ひとが作り出したもっとも古い観念のひとつに《神》がある。《神》は実在するのか、しないのか。それとも、《実在》という語がそぐわない、ある種の超越それ自体を指すのか。実在や経験、あるいは精神や観念、そしてそれらすべての超越者 […]
われわれの思考は、アドルノやデリダ、そしてハバーマスのあいだで揺れ動いている。弁証法に反対する人も、賛成の人も、結局は、彼らのつくる三角形のなかで藻掻いているにすぎない。全体化に強く反対したアドルノが、差異化の運動そのも […]
ウェブサイトがリニューアルされました。なお、当サイトはFirefox3.5で動作確認をしています。現在、IE6には対応していません。 確認ブラウザ一覧(推奨順) 1. Firefox 3.5 2. Safari 4 3. […]
遅々として進まぬ更新作業だが、問題はIEのバージョン6である。このサイトの訪問者のうち20パーセント強がブラウザにIE6を使用しているようなのだが、このブラウザのCSS回りがカス(?)なため、かなり難航している。というこ […]
このウェブをリニューアルしようと思っているが、なかなか思うようにいかない。ささやかなこの場所で、ささやかに知的活動をつづけているが、やはり、ささやかなものではあっても、自分なりによい場所にしたいとは思う。人生を振り返って […]
今日は白樺関連の展覧会があったので京都文化博物館へ。曇天のさなか、岸田劉生の美術・装丁をおおいに堪能した。自分は彫刻に関してはどうも古典礼賛から抜け出せなくていけないのだが、ロダンのよさも、すこしわかった気がする。途中、 […]
ブログを立ち上げてちょうど1年になった。カウンターはほぼ30000を数えているし、ユニーク数も6000を超えている。驚くべきことだと思う。 もともと自分は本をあまり読まないし、読んでも基本的につまみ食いしかしない。本を読 […]
ぼくは、言葉を直接現実に作動させる経験論を諦めていないし、またひとびとの精神を、物体の重力から引き剥がす言葉の独自性も信じている。そして、かつての偉大な文学者たちの言葉に触れるとき、彼らがそうした思考を追い求めていたこと […]
荘子の言葉をもう一度引用する。 荘子が恵子といっしょに濠水の渡り場のあたりで遊んだことがある。そのとき荘子はいった、「はや(魚)がのびのびと自由に泳ぎまわっている、これこそ魚の楽しみだよ。」ところが、恵子はこういった、「 […]
嘘とはなにか。そしてまた否定とはなにか。嘘と否定とは、よく似ている。実際、区別するのはむずかしい。したがって、ありきたりの仕方で両者を区別しようとは思わない。たとえば、次のような文章があるとしよう。 《私は犯人ではない。 […]
田中希生著、『精神の歴史』(有志舎)が6月24日に配本されました。専門書のおいてあるような本屋なら、もうそろそろ売ってると思います。 [amazon asin=”4903426254″][/ama […]
田中希生が編集代表&アート・ディレクションを務める歴史と批評の雑誌、『ノートル・クリティーク』第2号の発送作業がもうすぐ(週明け?)行なわれます。ようやく刷り上ってきた第2号も苦労の連続でした。これを手に取った読者様のご […]
小林多喜二を読んでいると、いかに《文学》が神聖なものだったかを、強く感じさせられる。共産党の活動の奥深くに食い込んで非合法生活をつづけるなかで、それでも彼は最後まで筆を手放さず、自分の目と耳と指とを信じ続けた。だから、自 […]
装幀がアマゾンにアップされています。前にもすこし触れましたが、奥定泰之さんのお仕事です。送られてきたPDFファイルを開けたときの感動が思い出されます。すごく綺麗な装幀で、本当、プロは違うなあと思ったものです。フォントの配 […]
「無知の知」というソクラテスの言葉がある。この言葉には、人間は有限の生き物である、という認識の重要性と同時に、有限なものを超えた無限なものに対して人間が抱く意志が含まれている。「知る」ということが、本質的に有限であるとこ […]
命題A:「わたしは嘘をついている」。この命題が真なのか偽であるのかを、内在的に証明することはできない。この自己言及的な「嘘つきのパラドックス」を起因として、ゲーデルに導かれ、ある種の数学基礎論―ヨーロッパ的合理主義の極致 […]
文献学者が日々量産しているカント主義観念、すなわち原因―結果の観念は過去をどんどん遠い彼方へと送り返している。なぜなら、原因とは、結果ではないからだ。原因と結果の両者は手をつないで、交わることなく、弁証法という名の楕円を […]
私的な仕事がぼちぼち終わりそうなので(まだ完全には終わっていない……)、ノートル・クリティーク第2号の編集にも本腰を入れているのだが、それはそうと、自分の本がアマゾンで予約できるようになっている(装幀は写真がまだ出てませ […]
物自体とその表象、という二重体において世界を思考するやり方、リプレゼンテーションの問題は、もちろん、今日われわれの社会で運営されている議会制民主主義Representative Democracyと呼ばれるものの問題と切 […]
数学は、自身の中に虚数imaginary numberを組み込むことにすでに成功している(イマジナリーと呼んだのはデカルトだが、この命名は今日ではあまりよくない)。現実にはありえないとされるにもかかわらず、すべての二次方 […]
晴れて査読を通過して掲載決定した執筆者さまにはご迷惑をおかけしています。予定より遅くなりましたが、第二号に向け、着々と編集作業が進んでいます。来月末にはなんとか入稿までこぎつけたいのですが、どうでしょうか。
政治が滅茶苦茶なことになっていると感じる。 法学的な観点やジャーナリスティックなセンスを持ち合わせていない素人であることを承知で、無責任にいえば、また概念の定義を広く見積もっていえば、小沢一郎の件は100パーセント国策捜 […]
兵士と戦士とを厳格に区別する必要を最初に説いたのはニーチェである。そしてニーチェは、ひとに兵士になるな、戦士になれ、と言った(ドゥルーズ=ガタリの《戦争機械》の概念は、この区別の延長上にある)。このニーチェの箴言は、いま […]
われわれは、戦前と戦後を見渡すことのできる世代である。戦前の60年と戦後の60年を比較して、そのどちらにも、ある種の共感を覚える。またそこに、思考の絶対的条件とでもいうべき不可避的な病があることも承知している。 ◆ たと […]
たとえば晩年のジャック・デリダがハバーマスと共闘したように、晩年の柄谷行人は丸山真男に共感する。ここに共通したなにかはないか。それも、戦後の病そのものであるような。といっても、それは不可避的な病であり、戦前のひとびとが、 […]