有志舎というすばらしい出版社から、今年の六月に本が出ることになった。博士論文「精神の歴史 近代日本における言葉と出来事」のいらない部分を削って改稿したものですが、またいずれ大々的に宣伝します。
遠隔力(磁力や重力など、離れているもの同士で働く力)を斥け、衝突によって力学を考えようとしたデカルトの議論は、今日ではマイナー科学に属し、万有引力を認めたニュートン以後の世界では、デカルトの衝突論は異端中の異端である。と […]
イスラエル軍は空爆の映像を世界に配信している。とにかくひどいという印象をわたしに抱かせる。この映像のフレームそのものが醜悪であり、撮影する者が代表している人間の醜悪さ、まるで人類の善を気取り、代表するような傲然とした態度 […]
平行線の定理が世界を論じる際に必要ないことに勘付いた近代の科学者たちは、そのとき、すでにその手に絵筆を握っていた。世界は、線分でできているのではない。色彩によって実現されているのだ。彼らはそのことに気づいた。だが、今日、 […]
一昨日、鎌倉は東慶寺を訪れたときの出来事。 まずは高見順の墓参り。相手が作家であると思うと、それも死人であればなおさら、こちらも裸にならざるを得ない。とりわけ彼の前では、隠し事はできない。自分でも思いもよらなかった言葉が […]
春に東京、秋に神戸で行なわれていたコロー展のカタログを手に入れた。それを読むと、彼を評価する過去の芸術家のさまざまな言葉を見つけることができる。それを紹介する文章を適当に引用してみよう。たとえば、エミール・ゾラ。 もし彼 […]
芸術は、いったい、なにを行なっているのだろうか。プラトンの言うような、自然の模倣? それとも、アリストテレスの言うような自然に《対して》虚構を作りあげること? どちらも、それほど正しくない。それに、この問いにかかわってい […]
言葉がみちて、やがてあふれて現実を穿つとき、わたしたちは、それを《出来事》と呼ぶことがある。それは真理の名に値する唯一のものであり、そして同時に名状しがたい美しさをもっている。 だが、こうした「思考」を否定する背面世界論 […]
最近、坂本龍一を聴くことが多い。小さい頃からファンだった手前、坂本を聴いているときは、自分が「衰弱」しているときだと認識することにしている。 「衰弱」というとわかりにくい? 衰退といってもいいが、疲労ではない。没落でもな […]
いま、神戸市立博物館でコロー展が開催されている。十九世紀フランスを代表する画家であるジャン=バティスト・カミーユ・コローといっても、知っているのは名前くらい、かの「真珠の女」でさえ、かつて教科書で見たかどうか、あるかなき […]
「音楽では革命は起こせない、というのを最近知ったよ。若い頃にはそう思っていろいろやったけどね。音楽はひとを教育する。それはとても国家的な教育なんだ。だから、いつも教育してしまう音楽を、なんとか別の方向に持っていければ、そ […]
「鏡像」という言葉を聞くと、磁力のことを思い出すのだが、今日ではもっと別様な意味で、ラカン風に使われる。「鏡像段階」である。厳密な自己とは異なる鏡に映った像、すなわち虚構としてのイメージ、それを自分自身であると認識するこ […]
ひとりの黒人男性がアメリカ大統領となった。すばらしいことだ。彼は、黒人、女性、性同一性障害者、すべてのマイノリティを演じることを、自ら引き受けたひとりの俳優となる。ギリシア悲劇において、《顔》も《仮面》も同じく「プロソポ […]
久しぶりに、ホメロスの『イリアス』(松平千秋訳、岩波文庫)を読んだ。ぼくがホメロスをはじめて読んだのは、中学か高校の頃だった。実家には、ギリシア悲劇の全集はあったが、ホメロスはなく、それで図書館で借りて読んだのだ。誰に薦 […]
五月革命以降、一九七〇年代を前後するわずかな期間に、フランスには哲学の帝王が君臨していた。ミシェル・フーコーである。もちろん、帝王という用語には注意せねばならない。というのも、後世の歴史家に誤解を与えてはならないからだ。 […]
ニーチェというひとりの人物が成長し、文献学者から哲学者へと変貌する姿は、ぼくたちを感動させる。そこには、なにひとつ無駄なものはない。そうした成長の物語――ひとりの独身ドイツ人の伝記作品を、ニーチェの生涯に見ることは、もち […]
ぼくは、ニーチェほど不器用で、そして真っ直ぐな人間を知らない。端的に、崇拝するアイドルのひとりだ。彼は真っ直ぐであることにナイーヴで、そして勇敢だった。ぼくたちには、彼の書いたものは、ときに、あまりにもひねくれて見える。 […]
蚊を叩き潰す。幼い頃、ぼくは昆虫その他小動物を愛していたので(いや、生き物全般をあれほどに愛していた時代はなかっただろう)、蚊が自分の腕を枕に食事をしているのをみても、窓の外に追い出すことしかしなかった。だが、そんな余裕 […]
中平卓馬という写真家がいる。1977年の9月11日、つまり今日からちょうど31年前に、アルコール中毒で倒れ、記憶や言語に障害を負いながら、今日もまだ、写真家でありつづけているひとである。ぼくが彼のことを知ったのは、一昨年 […]
夏が終わりを迎えるころ、わたしはある男に出会った。男は、「ずっとぼくを悩ませてきた問題がある」と言った。「自分の主張が反社会的とみなされ、死を宣告されるようなことがあったとする。ぼくはそのとき、どのように振舞うべきなのか […]
前にいったように、最近はずっと湯川秀樹のアルシーヴに塗れている。生々しく殴り書きされた古ぼけた紙に、「β崩壊」であるとか、「相互作用」であるとか、「宇宙線」であるとか、あるいはその他諸々の数式であるとか、そうい […]
古代ギリシアはキオスのストア派哲学者、禿頭のアリストンは、こう言ったという。 最良のもの(徳)と、最悪のもの(悪徳)とについてだけ関心をもち、その中間のものにはどちらでもない態度をとる。それこそ、人生の目的(テロス)であ […]
京大の基礎物理学研究所の隣に湯川記念館がある。そこには、中間子の存在を理論的に予言した1935年の「素粒子の相互作用に就いて」の原稿やそこに至る計算が書かれたメモ、あるいはバートランド・ラッセルからの手紙(ラッセル=アイ […]
子供のころ、雨が降ると、いつもショパンの『雨だれ』を思い出した。雨の日の気だるい午後、ピアノに頭をあずけながら、雨の音にあわせて鍵盤を叩くショパンを想像した。自分も、雨が降ると、ピアノの鍵盤にゆっくりと指を乗せ、同じ音を […]
この夏、一番の思い出といえば、城之崎に行ったことである。家賃を納める際、毎月2000円余分に預ける、ということを続けていたら、それなりにお金が貯まっていたから、それで行った。城之崎行きを、印象深いものに変えたのは、やはり […]
いつしか、わたしは不思議な感覚に囚われるようになった。それは、歴史よりも、文学のほうが、大きな概念なのではないか、ということだ。なぜ、ホメロスは、歴史家ではなく、文学者と呼ばれるのだろうか。『イリアス』は、なぜ、歴史書で […]
オリンピックなどというナショナルな祭典は好きではないが、見ていると、スポーツの世界には、まだ、純粋なものがあると感じさせられる。純粋なもの――それは、自己に内在的な追求のこと。つまり、自己の認識を拡張すること。かつて、芸 […]
上記の件で、ぼちぼち問い合わせが。まったく反応がないと思っていたので、嬉しいです。ウェブサイトを作らなきゃいかんのだろうけど、どうせ作るのはぼくだし、ちょっとネットはお疲れ中。査読つきの投稿雑誌なんで、投稿は随時受け付け […]
君は、いつも真理を求めていた。真理にたどりつくにはどうすればいいのか、どの道をたどるのが正しいのか、いつも考えてきた。といっても、自分からそう望んで考えていたわけではない、それをどうしても考えさせられたのだ。先人たちはい […]
ウェブサイトを始めたのは1999年の暮れである(単位が足りず留年したので、まだ学部生だった)。その頃のものも、いくつか適当にピックアップして、ここにも載せようかと考えている。22、3歳の昔のものを読んで感じるのは、若気の […]