博士論文を書くまでに、学生にはどうしても、人間的に成長することを自分に課して欲しいと思っている。大人になることと博士論文の期限とが、同時に来ると、一番いい。といっても、文献学の場合は、そうした成長をあまり必要としないのも、ほんとうである。
文献は、《外》を必要としない。言葉が出来事にたどりつかず、意味を介してまた言葉がつづくから、実際にはその言葉がどのように機能していたかとは無関係に、コミュニケーションなるものをつづけることができる。こうして、歴史の文献と先行研究だけを読んでいれば、それなりにまとまったものを書くことができる。自分なら、22歳で書いた卒業論文のほうが、よほどまとまっているが、文体的な猿真似をしているだけで、テクストの外にある現実にはなんら触れていない。
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歴史学の外で、文学や哲学に触れて、自分の文体は一度崩壊している。——というよりも、文体のことなどなんら考えていなかっただけだ。単位を落として思いがけず留年し、大学院に入ってからは大学の外で様々なひとに出会って、それで自分の文章はさらにおかしくなった。
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ずっと大学のなかにいれば、理論走った、いつも偉そうな、傲慢な若造にすぎなかったと思う。だが大学院に入った頃、たまたま、美容師や建築家、写真家、映画監督、画家、ダンサー、音楽家……等々の、ひと世代上の先輩たちと知り合いになり、生きるために本気でものを考える、とは、どういうことかと思い知った。
文献の外。大学の外。そこに、現実がある。かつてセネカが文献学(フィロロジー)と哲学(フィロソフィー)とを分けて後者を評価していた。若いときは前者だけでも成長できるかもしれないが、本当の知は、後者でなければならない。つまりテクストや大学の外に出て、現実に——生活に、向かわなければならない。自分の生を活かす、ということ……。
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人間の肉体のある場所が、外だ。文献のなかに人間はいない。歴史学なら、文献を読んでいるときでも、つねに人間を考えておくことが、大切だ。文献は、人間をみるための硝子窓としては意味があっても、窓でしかない、ということを、意識していなければならない。
言葉を現実に適用すること、それ自体、一種の翻訳だ。といっても、言葉から言葉への翻訳ではなく、言葉から現実へ、異なる位相を横断する、もっと深い翻訳だ。
そうした意志を養うことなしに、ひとは成長しない。言葉を現実に翻訳しようとするとき、はじめてひとは、世界と、そして《人間》とに出会う。——パラドックスそのものであるような。
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