JOURNAL

『人文学の正午』第12号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 31 March, 2024 | 172頁
【論文】
藤田 翔 抽象化される因果概念の先に
lalala- どこにも無い場所で 私は私のままで立っているよ ねえ君は君のままでいてね いつまでも君でいて欲しい
 当時、音楽業界で最盛期を誇っていた浜崎あゆみの二〇〇〇年に発売された17 thシングル、「surreal」のサビの一節である。この「どこにも無い場所」という表現は……

【特集論文:歴史と異端の神】
田中希生 ヴィーコ、ペギー、折口信夫——歴史と異教徒の魂——
歴史とは、異端の、あるいは異教の神々との対話である。たとえ同じ母語を共有するはずの自国史であっても、そうなのであり、いわんや神の死んだ現代人からすれば、神はおろか神の存在を信じる者との距離でさえ、文字通り途方もないものだ。現代社会がたえず磨いている道徳など……

藤根郁巳 〈不浄〉をめぐる神々の相克について——時衆国阿上人伝記史料の変奏をとおして——
伊勢は神仏の隔てがない。伊勢から、神と仏が溶け合った教えはまたたくまに広がっていく。そのように旅の僧は独白して、伊勢に向かう皇女が精進潔斎を行う野宮へと足を運んだ。これが金春禅竹(一四〇五〜一四七〇)作とされる謡曲『野宮』の始まりである。……

【翻訳】
吉川弘晃 アルミン・モーラー『ドイツの保守革命1918-1932』(一九五〇年初版)序文・第一章
以下は、Mohler, Armin, Die Konservative Revolution in Deutschland 1918-1932: Grundriß ihrer Weltanschauungen, Friedrich Vorwerk Verlag, Stuttgart, 1950 (S.5-33, 284-286)の全訳である。本書は何度も改訂・再版が重ねられ、その度に副題や版元も変わったが、……

【写真】
福西広和 人知れず咲く花/波音/透明になる水

【論文】
小野寺真人 朝鮮人強制連行とは何か——過去・現在・未来を見据えて——
本稿は、朝鮮人強制連行論についてのアルファにしてオメガである。エリック・ホブズボームによれば、帝国主義の全盛期は第一次世界大戦をピークポイントとし、それ以降衰退の一途をたどった……

【書評論文】
小野寺真人 田中友香理著『〈優勝劣敗〉と明治国家­—加藤弘之の社会進化論』
本書は、日本近代思想史を専攻する新進気鋭の著者によるものであり、明治時代の啓蒙学者・加藤弘之の社会進化論がどのような国家観をその都度提起し、それが実際の国家権力とどのような関係であったかを論じる良書である。……


『人文学の正午』第11号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 1 June, 2022 | 100頁
【論文】
田中希生 存在の歴史学のためのプロレゴメナ
「およそあるものはすべて、どこか一定の場所に、一定の空間を占めてあるのでなければならない」。カントのデカルト批判以来、近代哲学は、《存在》を《場》をともなうものとして語ってきた。ここでの場とは、ニュートンのいう重力が展開される「時空間」である。重力は……

【書評論文】
中村徳仁 「死への配慮」としての歴史学——田中希生『存在の歴史学』書評——
ユートピアの理想が、十九世紀には思想家たちの口から大いに語られた。そうした尊大さは二〇世紀に多くの悲劇を生み、その反省をもとにとりわけ前世紀後半の思想家たちは、近代文明の条件を徹底的に問い直した。人間はもはや理想や進歩について……

上田健介 『存在の歴史学』を読んで——一法学者としての考えたこと——
評者は、ひょんなことから著者の田中氏(以下、敬称は省略する)と知己を得た法学者(専門は憲法学)である。それゆえ、歴史—とくに、専門との関係もあって日本の近現代憲政史—には人並みの関心を抱いているものの……

【写真】
福西広和 水影/花の精/長い堤

【論文】
小野寺真人 姉崎正治と/の進化論——第一次世界大戦後のインターナショナルデモクラシーについて——
姉崎正治は一般的には日本における宗教学者の始祖としてその名を知られている。しかし、その姉崎が第一次世界大戦後に国際連盟の設立に尽力したことは言及されていても……

小野寺真人 国民国家(批判)論とは何だったのか——《文化複合》理論構築のための断章——
本稿の冒頭が「筆者の体験談」から始まることを、賢明なる読者諸氏にはご寛恕願いたい。 歴史研究者たちが集まるとある小さな研究会が終わり、いつものように酒宴が始まった時のことであった。日本人研究者が、在日朝鮮人研究者にこう問うた。……

【書評論文】
渡辺恭彦 廣松渉、新カント派、ルーマンを潜り抜けた「情報的世界観」と価値論の展相——大黒岳彦『ヴァーチャル社会の〈哲学〉——ビットコイン・VR・ポストトゥルース』二〇一八年
今般の疫病禍により、労働環境や産業の社会的な編制が抜本的に組み替えられつつある。オンラインを介した労務や教育が有力な選択肢の一つとなったことで、対面からオンラインへの移行は今後も継続すると推測される。ほんの数年前まで……


『人文学の正午』第10号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 1 June, 2020 | 58頁
【論文】
平野明香里「吉本隆明「転向論」—断層への固執—」
柄谷行人が「死語をめぐって」という論考において、死語—すなわちためらいや留保なしには使えないようなある種の言葉として、批判的に紹介している「知識人」なる存在は、柄谷の目に映った吉本隆明その人に外ならない。柄谷によると「知識人とは大衆ではないという自己意識」であり、……

田中希生「疫病国家論—全体とおぞましきもの—」
天文九年(一五四〇)六月、後奈良帝は、蔓延する疫病の終息を願って書写した『般若心経』の奥書に、次のように記している。今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉。窃写般若心経一巻於金字、……庶幾虖為疾病之妙薬……

【写真】
福西広和「ゆにわ に 満ちる光/澄み切った花影」

【論文】
田中希生「存在の歴史学のための序章」
存在は、なぜひとつの出来事なのか。わたしがこの問いを本論の中心に置くと決めたのは、つい最近のことである。だが思い返せば、研究者の道を歩みはじめて以来、ずっとそのことを考えつづけてきたのだと、いまは確信している。存在は、けっして抽象的な概念ではない。というのも、特有の現象形態——すなわち、孤独——をもっているからである。孤独は、……


『人文学の正午』第9号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 14 March, 2019 | 94頁
【論文】
吉川弘晃「秋田雨雀のソヴィエト経験(1927)—ウクライナ・カフカス旅行における西洋知識人との交流を中心に—」
二〇一七年、ロシア十月革命百周年を迎えた世界各地では、学術専門書や関連書籍の出版、各種シンポジウムの開催が見られた。しかしながら、こうした研究者の努力に反して、日本の一般社会でのソ連史への関心は高いものとは言えないという。ソ連史家の富田武氏は続けてこの理由について……

田中希生「本居宣長の生成論—丸山真男と小林秀雄—」
われわれの思考は通常、名に囚われている。名は無い、といったとしても、それは囚われていることになる。たとえば歴史がそうだ。そこに権力者の名が相対的に多く刻まれているのはたしかである。だからひとは、権力者だけが名をもつ、と誤解する。だが、その考えは浅はかである。……
 *この論文は『想文』創刊号掲載の同名論文の再録となります。

【写真】
福西広和「水仙/架線」

【ノート】
田中希生「王政復古異聞—歴史を衰弱から救い出す—」
歴史は積極的である。積極的でなければならない、とあえて当為表現でいうべきかもしれない。歴史は現代のネガだと考えられがちだからである。歴史は往々にして、現代の、あるいは政治や社会の従属物や付属品としてあつかわれる。付属品だから、無関係なものと……

【翻訳】
石上寮一「ツェラン・アンソロジー」

【エッセイ】
田中希生「レッケンの歌—ニーチェに寄す—」
どこにいてもストレンジな気分になりがちな、面倒な性格の自分にとって、自分の生きている時空間に対する愛着を表明するのはむずかしい。若い頃はもちろん、これからも簡単ではなさそうである。どんな人生であろうと、それ自体が苦しみだという言葉に、救いを見出したくなる気分に襲われることも多々ある。しかし一方で、ここではないどこか……


『人文学の正午』第8号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 14 February, 2018 | 108頁
【論文】
田中希生「アジア主義について—武士と大陸浪人—」
歴史学が長らくおのれに課してきたのは、史料に記された言葉の実在を問うことだった。トロイアは実在なのか。聖徳太子は実在なのか。源義経の逆落としは実在なのか。秀吉の一夜城は実在なのか。南京大虐殺は、従軍慰安婦は、ホロコーストは実在なのか……。……

吉田武弘「上院像の相克と近代日本—「為政」と「抑制」のあいだ—」
二〇一七年一〇月に行われた衆議院総選挙は、政界再編をにらんだ様々な動きをもたらした。その是非はおくとして、注目すべきはこうした現象が「反自民」とは恐らく本質的に区分される「反安倍」(ないし「非安倍」)を軸として起こされた動きだったということである。……

小野寺真人「アイヌ歌人・違星北斗論—五七五七七の世界と人種主義に抗する文学—」
二〇世紀初頭に活躍したアイヌ歌人に違星北斗がいる。後に見るように、五七五七七の世界に帝国支配下のアイヌの悲哀を詠んだ短歌には「人種主義に抗する文学」とでも評価すべきものがある。しかし、これまでのところ、違星北斗は、歴史研究や文学研究、あるいはアイヌ研究においても、正面から考察の対象とはほとんどなってこなかった。その理由は主に二点挙げられよう。……

【写真】
福西広和「パンジー/伊勢海老」

【書評】
小野寺真人「土佐弘之著『境界と暴力の政治学——安全保障国家の論理を超えて』」
書は国際関係論・政治社会学を専門にする土佐弘之による良作である。『アナーキカル・ガヴァナンス—批判的国際政治論の新展開』(御茶ノ水書房、二〇〇六年)という過去の作品のタイトルからお分かりいただけるように、土佐弘之の志向性は、国際関係論・政治社会論それ自体を批判的に捉えるところにあり、そこに主たる眼目があるといえよう。……

【翻訳】
小林敦子「ウィリアム・バトラー・イェーツ『骨の夢』」


『人文学の正午』第7号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 1 December, 2016 | 84頁
【論文】
田中希生「神話と立憲主義—本居宣長から平田篤胤へ—」
本稿の主題は立憲主義である。しかしほんとうは、それはわたしが想定しているもっと大きく重要な世界の一部を占めているにすぎず、その大きな世界からこの概念は理解されるべきである。そのことを理解してもらうために、奇妙な神話学者であるフロイトとアントナン・アルトーについて、いくらか頁を割いておきたい。彼らが論じた「無意識」は、その意味で重要な概念だからである。……

小林敦子「純文学の「私」—私小説・心境小説・第二の自我—」
純文学は、芸術としての文学と言われる。そしてまた、「私」の文学だと言われる。「純文学」という言葉が日本にあらわれて、百年が過ぎた。百年、この言葉はさまざまに語られてきた。深い尊崇がこめられる時もあれば、厳しい非難が向けられる時もあった。しかし「純文学」にいかなる理解が与えられようと……

平野明香里「再考・『立憲主義の「危機」とは何か』」
二〇一六年八月現在、ISの台頭、イギリスのEU離脱、トランプ氏のアメリカ大統領選への出馬、今上天皇による生前退位の意思表明などが起こっている。立憲主義の危機を自国内の問題とみなし、現状を護憲意識の不徹底や現政権の横暴の結果であるとする保守的な言説はこれまでに多くみられた。しかし、一箇の政権の横暴に対する単純な反動的批判が通用しなくなりつつあるのではないだろうか。むしろ……


『人文学の正午』第6号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 15 March, 2016 | 88頁
【論文】
田中希生「歴史の詩的転回—同時性と雲の時間—」
歴史とはなにか。 この問いは、歴史学を稼業とする者がじかにふれるものではない。むしろ、歴史の具体的な対象にふれるにつけ、学者の頭のかたすみに塵のように堆積していくものである。この塵が気になる者もならない者もいるが、いずれにしても、塵は塵、つまり彼には無価値である。ふっと思考が休息をもとめて意識を虚空に遊ばせるとき、自分のいる場所よりもずっと下のほうの暗がりに、不意に、堆くつもった塵が目にとまる……

小林敦子「小説と生—叙事文学論—」
芸術は生命の表現である、という言い方を我々はよく受け入れている。「作家の表現とは生命の燃焼」である 文学は生命の燃焼であり、書くことで文学者は生きる。画家は絵を描くことで生き、踊り手は踊りを踊ることで生きる。しかし我々がごく自然に受け入れているこの言い方は、純化された言葉の向こうに、どれほど深遠な世界を示しているだろうか。書くことは生きることである……

シンポジウム「歴史と文学—叙事詩の可能性—」
小林 今日は、叙事詩をヒントに、歴史と文学の話をしたいと思います。田中さんは、叙事詩の時代の歴史学を中心に、叙事詩の時代から、歴史学の誕生について、つまり文学と歴史というものがどのような起源をもち、どのように分かれてきたかについて研究されてきたのですが、私の方は、ある意味ジャンルとして分かれた歴史学・文学というものが、その後どう考えられてきたかということに関心を寄せてきたことになります。……

【写真】
福西広和「柘榴」「花」

【翻訳】
石上寮一「リルケのかけら」

『人文学の正午』第5号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 15 September, 2014 | 98頁
【論文】
田中希生「旅と都市—その喪失と国民国家—」
著しいコントラストを描く、隣接した時間。たとえば、昨日と今日、去年と今年。平家物語の一節に、時間概念の歴史的変化の可能性を読み取っていたのは石母田正である。彼によれば、詩や物語にみられるごとく、自然の移り変わりについて、日本人は巧みに表現した。しかし、人間と人間世界の変化についての表現法を得るためには、治承四年五月の以仁王挙兵にはじまる六年間の内乱が必要だった……

小林敦子「「書く私」の文学—臨場する自我・志賀直哉—」
「うむ」と父は首肯いた。自分は亢奮からそれらを宛然怒っているかのような調子で云っていた。最初から度々母に請合った穏やかに、或いは静かにと云う調子とは全く別だった。然しそれはその場合に生れた、最も自然な調子で、これより父と自分との関係で適切な調子は他にないような気が今になればする。「然し今迄もそれは仕方なかったんです。只、これから先までそれを続けて行くのは馬鹿気ていると思うんです」……

梅田 径「『奥義抄』の書写形態—上巻における散文的項目を中心に—」
藤原清輔の著作である『奥義抄』の書写形態の多様性を現存諸本の検討を通じて論じる。写本の書写面から『奥義抄』を考察する試みは、前稿において提示したものの、それはあくまでも大東急記念文庫本の特徴を論及したものに過ぎなかった。本稿ではは取り扱う対象を拡げ、諸本の書写面にどのような現象が起き、それはどのような要因により生起したのか……

【翻訳】
石上寮一「ツェラン・アンソロジー」

【俳句】
嘉山範子「俳句二十二句」

『人文学の正午』第4号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 7 January, 2013 | 120頁
【論文】
小路田泰直「近代の誕生—日本史試論(下)—」
人が人でありながら、やり方如何によっては全知全能(悟り)を得、この世に王として君臨することができるという言説が崩壊し、例外なき人の悟りの不能が法然によって宣告されて以来、この国を支配する最高の規範は、王の意志ではなく、「道理」になった。「道理」とは、次の『愚管抄』の作者(天台座主)慈円の発言の中にある規範である。……

住友陽文「国体と近代国家
—吉野作造による〈主権者と臣民との関係〉認識から—」
ベネディクト・アンダーソンが、かつて「国民」というものを、国境を持った主権的で共同体的なものとして「想像される」存在と述べ、さらにそれを近代的産物として位置づけたことは周知のことに属する。「想像される」とアンダーソンが指摘したことは重要である。なぜなら国民というものが単に「幻想」であったというものではなく……

梅田 径「『和歌初学抄』の書面遷移—項目配置と享受—」
歌学書は書写過程において大きな変容や改変が生じる場合が多い。内容的にも、先行する歌学書の記述を引き継ぐ記事も多いため、記述をそのまま著者の思想の直接的な表出と見なすことには慎重にならざるをえない。本稿で扱う藤原清輔や顕昭の時代においてすら、先行歌学書の多くが散逸しており、『奥義抄』にせよ『袖中抄』にせよ、それらが先行書の記述を引き継いでいる可能性に常に留意する必要がある。しかも院政期初期の歌学書は……

小林敦子「蛙への生成変化—草野心平とドゥルーズ—」
「彼は最初、「電気飴のやうな陽光がはひつてくる」水の底で蛙になる。」—高村光太郎は、草野心平の処女詩集『第百階級』に序文を寄せている。彼は蛙でもある。蛙は彼でもある。しかし又そのどちらでもない。それになり切る程通俗ではない。又なり切らない程疎懶ではない。真実はもつとはなれたところに炯々として立つてゐる。このどしんとはなれたもの……

田中希生「維新の思考—四つのパラドックス—」
われわれは、表象と実在の不一致に悩んでいる。時代が混沌としてくると、なおさら不一致の傾向は強くなってくる。大臣といわれるひとたちのあの醜さ。知識人といわれるひとたちのあの軽薄さ。商人たちの前で頭を垂れる、刀を帯びた侍たちのあのみすぼらしさといったら。刀や姓は、にわかに《記号》の様相を呈し始める。武士と商人と、あるいは天皇と将軍と、いったいどちらが……

【写真】
福西広和「白露に山青垣を甘樫丘から望む」

【翻訳】
石上寮一「ツェラン訳詩選(3)」

『人文学の正午』第3号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 25 June, 2012 | 182頁
【論文】
田中希生「歴史とはなにか—人間と革命—」
歴史とは、ほかでもない人間の歴史である。だがこの人間存在が、歴史をあやふやなものにする。自然史に携わる学者がふだん慣れ親しんでいる明晰さと厳密さとが、途端に縁遠いものになる。むろん、その距離を縮めようと試みることはできる。歴史を自然史と同じものにするために、たとえば、人間はいつ地上に現われたのか、と問うてみてはどうか。すなわち、地上に脊椎動物が誕生し、時を経てほ乳類が生まれ、さらに猿が生まれ、ついに系譜は……

小路田泰直「歴史の誕生—日本史試論(中)—」
近代とは歴史を描き、歴史・伝統に頼る時代である。自然法の支配とは、そのことを意味している。日本近代も王政復古によって生まれた。では何故にそのように近代は生まれたのか、それを考えるのが本稿の課題である。当然出発点は、前稿(「神と心の歴史—日本史試論(上)」本誌第二号、二〇一一年十二月)でも述べた、私が依存理論と名付けた、人と社会の発生に関する私なりの仮説である。……

井上 治「花道思想における修行に関する試論」
「花道(華道)」という言葉が広く用いられるようになったのは、貞享五年(一六八八年)に刊行された『立華時勢粧』以降であるとされる。池坊を出て一流を立てた桑原冨春軒仙渓によって著された同書には、「花道の正道」や「花道の正理」といった文言が見られる。しかし言うまでもなく、これは今日確認されている書物の中で「花道」という語が用いられている最初期の事例という意味であり、この貞享五年を以て「花道」が発生したという訳ではない。例えば既に室町期の『池坊専応口伝』に……

林 尚之「昭和初期の思想司法の展開と帰結
—思想犯保護観察法、司法保護事業法の思想的基盤から—」
治安維持法や思想犯保護観察法、司法保護事業法の制度運用は「人間の改造」、つまり、思想犯の転向輔導や釈放者の教化改善にむかって積み上げられてきた。昭和初期の治安体制の特質は転向補導政策にあるといえる。治安維持法の代表的な研究として、法制度的見地から治安維持法の実際的機能を明らかにした奥平康弘氏の研究がある。奥平氏は、思想を取り締まる治安維持法がその特異な運用方法のなかで転向補導機能を政策的に持っていたことを論じている……

古川雄嗣「苦しみの意味と偶然性—九鬼周造の偶然論再考—」
九鬼周造という哲学者ほど、強い先入観ないし漠然とした印象のもとに読まれて来た哲学者も少ないかもしれない。まずはその問題から考えておこう。
まず第一に、九鬼周造の著書のうち、最も人口に膾炙しているのは、文句なく『「いき」の構造』であろう。「いき」という、九鬼曰く日本独自の美意識の構造を緻密に分析したこの書物は、その主題のユニークさの点でも際立っており、今日もなお多くの読者を魅了している。加うるに、男爵・九鬼隆一を父にもち、母は祇園の芸妓の出であるとも言われるその出自から……

【写真】
福西広和「立春の越前海岸にて」

【翻訳】
石上寮一「ツェラン訳詩選(2)」

【小説】
小林敦子「エイドラ」

『人文学の正午』第2号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 24 December, 2011 | 74頁
【論文】
小路田泰直「神と心の歴史—日本史試論(上)—」
神は実在する。
人の本質はその自立性にではなく、他者依存性にある。そして捕食さえ他者に依存するその徹底した他者依存ぶりが、分業をつくり社会を生む。捕食ということをしなくてもよくなった人の一部は、弟(アベル)殺しの罪で大地を追われた(即ち自分で捕食のできなくなった)カインの末裔が銅と鉄をつくる人々の祖になったように、その大きな大脳と二足歩行の結果自由になった手を活かして、様々な技能や産業を発展させる。それが交換と分業を生むからである。
だから社会は人(ホモサピエンス)が個体としての自立性を失った瞬間、殆ど自然発生的に生まれる。そして……

田中希生「統計から貨幣へ—近代国家の歴史的変遷について—」
実証主義と構成主義とが対立していると考えるのは、もはや困難である。というか、それらの対立が深まれば深まるほど、いずれもが同じ素朴な経験的実在論と化していく。実践的には、資料から実態を見いだすのか、書き手の思想を見いだすのか、というちがいしかない。唯一の資料を出発点として、迂回の仕方に差はあれ、結局は、そのときどきの「社会」の全容あるいは一端を解明しようとするものに変わりはない。
では、「社会」はいかにみるべきか。実体論的にか、それとも観念論的にか。
サピア=ウォーフ流の言語相対主義、言語決定主義がしばしば非難されたように……

小林敦子「野の時間と歴史—室生犀星「虫寺抄」をめぐって—」
室生犀星は伊藤信吉が「避戦の作家」と呼んだように、一九四〇年代、戦争に距離を取り続けた小説家である 。犀星のアジア太平洋戦争下の作品は、「甚吉もの」と呼ばれる庭を主題にした幽遠・枯淡の趣をもつ随筆風の小説、あるいは、古典に材をとった「王朝物」が主となり、実際散文においては、戦争を描いたものは少ない。「詩をいじめて」、「小説を守った」 と評されるよう、その、現行の戦争に応じていない散文の主題の取り方は、犀星の非常に意志的な姿勢である。
犀星のこの姿勢を……

【翻訳】
石上寮一「ツェラン訳詩選」

【随筆】
嘉山範子「犬島行き」

『人文学の正午』創刊号

A Noon of Liberal Arts | 人文学の正午編集委員会 | 24 December, 2010 | 94頁
【論文】
田中希生「近代人文学とはなにか—二つの世紀の記憶と忘却—」
本稿は、近代の人文学がいかなるものであったか、もっと正確にいえばどのように機能してきたのか、その歴史的な足取りをたどりながら、来たるべき人文学のための見取り図を示そうとするものである。プラトンやアリストテレスの伝統に連なる「とはなにかto ti esti」という問いを引き受けることは、当然、アカデミズムの伝統が受けてきた非難をも背負うことであろう。また伝統的アカデミズムの側からいっても、風変わりな概略を述べることの暴力と、いささか冒険的な内容を見取り図として示す無謀とが、本稿の望まぬ基調となることを、十分に承知している。
近代には、明確なはじまりの日付があるように思われる。それは、王や英雄たちによって作り出された、大掛かりな事件によってではない。……

井上 治「花道思想における出生と花矩に関する試論」
雪月花と言い花鳥風月と言うように、花は自然美を象徴するものとして語られる。それゆえ人々は、古今東西を通じてこの花と親しい関係を築いてきた。日本の伝統文化である花道は、この関係のひとつの形態である。花道は、自然の花に人為的な技巧を加えた所に成り立つ。しかし言うまでもなく人間自体もまた自然の産物である以上、自然と人為という単純な二分法は必ずしも妥当ではない。
表現の手段として草木を用いる花道は、常に植物の自然の姿を尊重してきた。この自然の姿は、花道において「出生」という言葉で言い表される。「出生の尊重」は、一貫して花道思想における根本原則であった。一方で花人は、草木の自然の姿とは異なる次元から「花」の形をデザインしてきた。……

古川雄嗣「九鬼周造の唯美主義哲学—時間論と芸術・文芸論—」
我が国の哲学者九鬼周造(一八八八〜一九四一)は、狭義の哲学研究にとどまらず、芸術や文芸についての論考も多く、また自ら詩作したことでも知られ、時に詩人哲学者と呼ばれることもある。それゆえに彼の哲学への関心は、狭義の哲学研究のみならず、文芸研究や美学研究、あるいは日本文化研究の方面からもしばしば向けられてきた。しかしながら、これらの諸研究は、各々の研究領域における文脈と関心から九鬼哲学の一側面に光を当て、さらにはそれに創造的な解釈を加えるという点ではたしかに興味深く、また意義深いものである反面、あくまでも一側面でしかない「部分」を九鬼哲学の「全体」から切り取った断片として扱おうとする傾向もまた否めない。たしかに、九鬼哲学における様々な主題—例えば時間論、偶然論、「いき」、日本詩における押韻論……

【翻訳】
小林敦子「イェーツ訳詩選」

【随筆】
山下航佑「アイルランドとヨットの恋人—アドルノ、ニーチェ、そして岡本太郎—」

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(1)
論文投稿の資格は、掲載決定後、執筆者数で等分した印刷経費の負担ができること。

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投稿は随時受け付ける。締め切りは設けない。宛先は以下のメールアドレスとする。shogo@fragment-group.com

(3)
論文の枚数は、論題、注、図表、写真などを含め、四〇〇字詰め原稿用紙で八〇枚程度。下限は設けない。研究ノート、研究動向、調査報告、資料報告は六〇枚以内、書評二〇枚以内、新刊紹介一〇枚以内。書評・新刊紹介以外は英文タイトル、論文には八〇〇字以内の要約を添付願います。外国語論文は英語のみ受け付けますが、翻訳を添付、ネイティヴ・チェックは執筆者の責任で行なってください。

(4)
投稿論文のファイル形式はワードまたは一太郎とし、同データをPDFファイル化したものをあわせて提出すること。

(5)
投稿者は、別に、執筆者名(ふりがな)、メール・アドレス、執筆者の専門領域(なるべく簡潔に)、主な著書や掲載論文(および掲載誌)の タイトルを明記した文書を添付してください。

(6)
二重投稿は認めません。

(7)
論文の採否は編集委員会が委嘱する審査員の所見に基づき、編集委員会において決定します。

(8)
『人文学の正午』に掲載された論文は、著者の許諾を得た上で、ウェブ等に掲載される場合がある。著者による論文の転載等は制限しない。

STATEMENT

創刊の辞

人文学の正午編集委員会

かつても、そしていまも、学問の世界はますます多様さを深め、専門分化を高度に進めています。これからもその歩みが留まることはないでしょう。それは、今日学問の世界で主要な位置を占める、科学という形態がもっている原理的かつ必然的な要請だからです。その一方に、人文学という概念があります。人間を出発点として、あらゆるものを扱おうとする広範な内容をもった古い概念です。私たちはいま、あえてもう一度人文学という出発点を捉えなおし、その目的を見定めてみたいと思うようになりました。

近代的な分類のなかで人文学といいうるのは、せいぜい、文学・哲学・歴史くらいでしょうか。それは、これらの学問が特権的というよりは、たんに科学的ではありえない、分割できない滑らかな要素をもっていたからであり、その結果、古い概念がより多く残存したというにすぎません。したがって、私たちは、ただこうした旧来の学問領域に立ち帰ろうというのではなく、概念としての人文学が、何を求め、何を願ってきたか、その地点から再考したいと思うのです。

人文学が人間を出発点とするというなら、動機や目的はなんでしょうか。やはり、それもまた人間を知ることにほかなりません。もっとも小さな、身近な存在である自己から出発し、やはりもっとも小さな、そして身近な自己を目指す知的活動、それが人文学です。

自己とは何者であり、なにを願い、なにを実現するのか。その問いの様々な現われ方によって、人文学の概念は、文学や哲学、歴史のみならず、あらゆる領域に姿を現わします。知に携わる者が自己の問題に立ち帰るとき、かならず本来の人文学の概念が形成されるのです。科学者にとって、自己は《予測不能のDisturbance》といわれます。この予測不能さを思考するとき、私たちはすでに人文学者です。

科学の重要性があきらかなように、実学的な動機、すなわち他人の役に立ちたいという動機もまた、正当なものです。そしてたしかに、人文学はある種の外部、たとえば自然といっても、社会といっても、他者といってもいいような外部の問題を科学に明け渡しました。しかし私たちは、自己なしにはすべての他人もまた実現しないという、ありふれた逆説に、思いを馳せる必要があると考えます。

何百年にもわたって科学技術が進歩をつづけても、最近は昔のような進歩の風を感じられない。その原因が、使いこなす人間が育っていないことにあるのは、多くの人が気づいていると思います。風を受け止めていた翼がもがれ、人間の内側の空洞をただ吹き抜けていく。私たちの多くが、この空洞を感じているのではないでしょうか。しかしそのことによって、おそらく何百年かぶりに、私たちは自己に直面しているのかもしれません。社会にもっとも役に立たない、たんなる自己に最高の価値を与える努力を惜しまない。つまり人文学者となること。厳密さと明晰さとを科学者から学んだ人文学者のためのこの雑誌は、結局は、自己を真摯に追究しようとするすべてのひとに開かれているのです。

BOOKS

会員図書



渡辺恭彦『廣松渉の思想』
みすず書房 | 2018
¥6,264


古川雄嗣『偶然と運命―九鬼周造の倫理学』
ナカニシヤ出版 | 2015
¥5,615


小林敦子『生としての文学 高見順論』
Jun Takami: Literature as Life | 笠間書院 | 2010
¥2,625


田中希生『精神の歴史 近代日本における二つの言語論』
History(s) of Spirits | 有志舎 | 2009
¥6,048