JOURNAL
『人文学の正午』第12号
藤田 翔 抽象化される因果概念の先に
当時、音楽業界で最盛期を誇っていた浜崎あゆみの二〇〇〇年に発売された17 thシングル、「surreal」のサビの一節である。この「どこにも無い場所」という表現は……
田中希生 ヴィーコ、ペギー、折口信夫——歴史と異教徒の魂——
藤根郁巳 〈不浄〉をめぐる神々の相克について——時衆国阿上人伝記史料の変奏をとおして——
吉川弘晃 アルミン・モーラー『ドイツの保守革命1918-1932』(一九五〇年初版)序文・第一章
福西広和 人知れず咲く花/波音/透明になる水
小野寺真人 朝鮮人強制連行とは何か——過去・現在・未来を見据えて——
小野寺真人 田中友香理著『〈優勝劣敗〉と明治国家—加藤弘之の社会進化論』
『人文学の正午』第11号
田中希生 存在の歴史学のためのプロレゴメナ
中村徳仁 「死への配慮」としての歴史学——田中希生『存在の歴史学』書評——
上田健介 『存在の歴史学』を読んで——一法学者としての考えたこと——
福西広和 水影/花の精/長い堤
小野寺真人 姉崎正治と/の進化論——第一次世界大戦後のインターナショナルデモクラシーについて——
小野寺真人 国民国家(批判)論とは何だったのか——《文化複合》理論構築のための断章——
渡辺恭彦 廣松渉、新カント派、ルーマンを潜り抜けた「情報的世界観」と価値論の展相——大黒岳彦『ヴァーチャル社会の〈哲学〉——ビットコイン・VR・ポストトゥルース』二〇一八年
『人文学の正午』第10号
平野明香里「吉本隆明「転向論」—断層への固執—」
田中希生「疫病国家論—全体とおぞましきもの—」
福西広和「ゆにわ に 満ちる光/澄み切った花影」
田中希生「存在の歴史学のための序章」
『人文学の正午』第9号
吉川弘晃「秋田雨雀のソヴィエト経験(1927)—ウクライナ・カフカス旅行における西洋知識人との交流を中心に—」
田中希生「本居宣長の生成論—丸山真男と小林秀雄—」
*この論文は『想文』創刊号掲載の同名論文の再録となります。
福西広和「水仙/架線」
田中希生「王政復古異聞—歴史を衰弱から救い出す—」
石上寮一「ツェラン・アンソロジー」
田中希生「レッケンの歌—ニーチェに寄す—」
『人文学の正午』第8号
田中希生「アジア主義について—武士と大陸浪人—」
吉田武弘「上院像の相克と近代日本—「為政」と「抑制」のあいだ—」
小野寺真人「アイヌ歌人・違星北斗論—五七五七七の世界と人種主義に抗する文学—」
福西広和「パンジー/伊勢海老」
小野寺真人「土佐弘之著『境界と暴力の政治学——安全保障国家の論理を超えて』」
小林敦子「ウィリアム・バトラー・イェーツ『骨の夢』」
『人文学の正午』第7号
田中希生「神話と立憲主義—本居宣長から平田篤胤へ—」
小林敦子「純文学の「私」—私小説・心境小説・第二の自我—」
平野明香里「再考・『立憲主義の「危機」とは何か』」
『人文学の正午』第6号
田中希生「歴史の詩的転回—同時性と雲の時間—」
小林敦子「小説と生—叙事文学論—」
シンポジウム「歴史と文学—叙事詩の可能性—」
福西広和「柘榴」「花」
石上寮一「リルケのかけら」
『人文学の正午』第5号
田中希生「旅と都市—その喪失と国民国家—」
小林敦子「「書く私」の文学—臨場する自我・志賀直哉—」
梅田 径「『奥義抄』の書写形態—上巻における散文的項目を中心に—」
石上寮一「ツェラン・アンソロジー」
嘉山範子「俳句二十二句」
『人文学の正午』第4号
小路田泰直「近代の誕生—日本史試論(下)—」
住友陽文「国体と近代国家
—吉野作造による〈主権者と臣民との関係〉認識から—」
梅田 径「『和歌初学抄』の書面遷移—項目配置と享受—」
小林敦子「蛙への生成変化—草野心平とドゥルーズ—」
田中希生「維新の思考—四つのパラドックス—」
福西広和「白露に山青垣を甘樫丘から望む」
石上寮一「ツェラン訳詩選(3)」
『人文学の正午』第3号
田中希生「歴史とはなにか—人間と革命—」
小路田泰直「歴史の誕生—日本史試論(中)—」
井上 治「花道思想における修行に関する試論」
林 尚之「昭和初期の思想司法の展開と帰結
—思想犯保護観察法、司法保護事業法の思想的基盤から—」
古川雄嗣「苦しみの意味と偶然性—九鬼周造の偶然論再考—」
まず第一に、九鬼周造の著書のうち、最も人口に膾炙しているのは、文句なく『「いき」の構造』であろう。「いき」という、九鬼曰く日本独自の美意識の構造を緻密に分析したこの書物は、その主題のユニークさの点でも際立っており、今日もなお多くの読者を魅了している。加うるに、男爵・九鬼隆一を父にもち、母は祇園の芸妓の出であるとも言われるその出自から……
福西広和「立春の越前海岸にて」
石上寮一「ツェラン訳詩選(2)」
小林敦子「エイドラ」
『人文学の正午』第2号
小路田泰直「神と心の歴史—日本史試論(上)—」
人の本質はその自立性にではなく、他者依存性にある。そして捕食さえ他者に依存するその徹底した他者依存ぶりが、分業をつくり社会を生む。捕食ということをしなくてもよくなった人の一部は、弟(アベル)殺しの罪で大地を追われた(即ち自分で捕食のできなくなった)カインの末裔が銅と鉄をつくる人々の祖になったように、その大きな大脳と二足歩行の結果自由になった手を活かして、様々な技能や産業を発展させる。それが交換と分業を生むからである。
だから社会は人(ホモサピエンス)が個体としての自立性を失った瞬間、殆ど自然発生的に生まれる。そして……
田中希生「統計から貨幣へ—近代国家の歴史的変遷について—」
では、「社会」はいかにみるべきか。実体論的にか、それとも観念論的にか。
サピア=ウォーフ流の言語相対主義、言語決定主義がしばしば非難されたように……
小林敦子「野の時間と歴史—室生犀星「虫寺抄」をめぐって—」
犀星のこの姿勢を……
石上寮一「ツェラン訳詩選」
【随筆】
『人文学の正午』創刊号
田中希生「近代人文学とはなにか—二つの世紀の記憶と忘却—」
近代には、明確なはじまりの日付があるように思われる。それは、王や英雄たちによって作り出された、大掛かりな事件によってではない。……
井上 治「花道思想における出生と花矩に関する試論」
表現の手段として草木を用いる花道は、常に植物の自然の姿を尊重してきた。この自然の姿は、花道において「出生」という言葉で言い表される。「出生の尊重」は、一貫して花道思想における根本原則であった。一方で花人は、草木の自然の姿とは異なる次元から「花」の形をデザインしてきた。……
古川雄嗣「九鬼周造の唯美主義哲学—時間論と芸術・文芸論—」
小林敦子「イェーツ訳詩選」
山下航佑「アイルランドとヨットの恋人—アドルノ、ニーチェ、そして岡本太郎—」
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論文投稿の資格は、掲載決定後、執筆者数で等分した印刷経費の負担ができること。
(2)
投稿は随時受け付ける。締め切りは設けない。宛先は以下のメールアドレスとする。shogo@fragment-group.com
(3)
論文の枚数は、論題、注、図表、写真などを含め、四〇〇字詰め原稿用紙で八〇枚程度。下限は設けない。研究ノート、研究動向、調査報告、資料報告は六〇枚以内、書評二〇枚以内、新刊紹介一〇枚以内。書評・新刊紹介以外は英文タイトル、論文には八〇〇字以内の要約を添付願います。外国語論文は英語のみ受け付けますが、翻訳を添付、ネイティヴ・チェックは執筆者の責任で行なってください。
(4)
投稿論文のファイル形式はワードまたは一太郎とし、同データをPDFファイル化したものをあわせて提出すること。
(5)
投稿者は、別に、執筆者名(ふりがな)、メール・アドレス、執筆者の専門領域(なるべく簡潔に)、主な著書や掲載論文(および掲載誌)の
タイトルを明記した文書を添付してください。
(6)
二重投稿は認めません。
(7)
論文の採否は編集委員会が委嘱する審査員の所見に基づき、編集委員会において決定します。
(8)
『人文学の正午』に掲載された論文は、著者の許諾を得た上で、ウェブ等に掲載される場合がある。著者による論文の転載等は制限しない。
STATEMENT
創刊の辞
かつても、そしていまも、学問の世界はますます多様さを深め、専門分化を高度に進めています。これからもその歩みが留まることはないでしょう。それは、今日学問の世界で主要な位置を占める、科学という形態がもっている原理的かつ必然的な要請だからです。その一方に、人文学という概念があります。人間を出発点として、あらゆるものを扱おうとする広範な内容をもった古い概念です。私たちはいま、あえてもう一度人文学という出発点を捉えなおし、その目的を見定めてみたいと思うようになりました。
近代的な分類のなかで人文学といいうるのは、せいぜい、文学・哲学・歴史くらいでしょうか。それは、これらの学問が特権的というよりは、たんに科学的ではありえない、分割できない滑らかな要素をもっていたからであり、その結果、古い概念がより多く残存したというにすぎません。したがって、私たちは、ただこうした旧来の学問領域に立ち帰ろうというのではなく、概念としての人文学が、何を求め、何を願ってきたか、その地点から再考したいと思うのです。
人文学が人間を出発点とするというなら、動機や目的はなんでしょうか。やはり、それもまた人間を知ることにほかなりません。もっとも小さな、身近な存在である自己から出発し、やはりもっとも小さな、そして身近な自己を目指す知的活動、それが人文学です。
自己とは何者であり、なにを願い、なにを実現するのか。その問いの様々な現われ方によって、人文学の概念は、文学や哲学、歴史のみならず、あらゆる領域に姿を現わします。知に携わる者が自己の問題に立ち帰るとき、かならず本来の人文学の概念が形成されるのです。科学者にとって、自己は《予測不能のDisturbance》といわれます。この予測不能さを思考するとき、私たちはすでに人文学者です。
科学の重要性があきらかなように、実学的な動機、すなわち他人の役に立ちたいという動機もまた、正当なものです。そしてたしかに、人文学はある種の外部、たとえば自然といっても、社会といっても、他者といってもいいような外部の問題を科学に明け渡しました。しかし私たちは、自己なしにはすべての他人もまた実現しないという、ありふれた逆説に、思いを馳せる必要があると考えます。
何百年にもわたって科学技術が進歩をつづけても、最近は昔のような進歩の風を感じられない。その原因が、使いこなす人間が育っていないことにあるのは、多くの人が気づいていると思います。風を受け止めていた翼がもがれ、人間の内側の空洞をただ吹き抜けていく。私たちの多くが、この空洞を感じているのではないでしょうか。しかしそのことによって、おそらく何百年かぶりに、私たちは自己に直面しているのかもしれません。社会にもっとも役に立たない、たんなる自己に最高の価値を与える努力を惜しまない。つまり人文学者となること。厳密さと明晰さとを科学者から学んだ人文学者のためのこの雑誌は、結局は、自己を真摯に追究しようとするすべてのひとに開かれているのです。