PROGRAM
福西広和写真展
「歴史と写真 Ⅲ 時間とイメージについての試論」
◎日程:9月23日(月)13:00〜18:00
◎場所:奈良女子大学文学部N棟1階101講義室
◎トークイベント:福西広和/田中希生(歴史家) 16:00〜17:00 ◎アクセス方法(地図内3A)
◎どなたでもご自由にご来訪ください。
◎ロッカー等ありませんので、所持品は各自で管理ください。
◎ポスターをダウンロードできます。
PROGRAM
人文学の正午研究会第8回定例大会
シンポジウム 苦悩する歴史家/歴史
→ポスターをダウンロードできます。
現代の私たちは、スマートフォンやパソコンの、長方形の画面上にうつる情報を、リアルなものとしてとらえ、人生の大半を費やします。このように、もはや空間の現実が、画面のように平板で、不可触なものとなったとき、時間もまた、いびつな変化が生じているといえるでしょう。そのとき私たちは、たんなる刹那の砂粒の海が、無意味に流れていくなかで、数えるほどの無機質な容器によって、人生を、社会を、文化を、象ることしかできないのでしょうか。生きること、死ぬことは、忘れ去られているのでしょうか。私たちが未知なる未来へと歩むための灯として、もしくは格闘する対象としての過去や歴史は、もはや存在するのでしょうか。本シンポジウムでは、今一度、歴史を、生を、根底から、問いなおすことを試みます。
汲田美砂「歴史と文学の狭間」
藤根郁巳「歴史はただよい、まどろむ——苦悩する歴史家のために」
田中希生「志賀直哉と自己原因」
◎日程:8月18日(日)14:00〜17:30
(開場13:30)
◎場所:奈良カレッジ交流テラス(奈良女子大学東側敷地内)
→アクセス方法(地図内③)
◎どなたでも参加できます。kiotanaka@fragment-group.comまでご一報ください。
◎報告・討論ののち懇親会があります。こちらもぜひご参加ください。
◎ロッカー等ありませんので、所持品は各自で管理ください。
PROGRAM
福西広和写真展
「歴史と写真 Ⅱ イメージについての試論」
◎日程:9月24日(日)12:00〜18:00
◎場所:奈良カレッジ交流テラス(奈良女子大学東側敷地内)
◎トークイベント:福西広和/田中希生(歴史家) 16:00〜17:00 ◎アクセス方法(地図内3A)
◎どなたでもご自由にご来訪ください。
◎ロッカー等ありませんので、所持品は各自で管理ください。
◎ポスターをダウンロードできます。
PROGRAM
人文学の正午研究会第7回定例大会
シンポジウム 戦争を考える——歴史学からのアプローチ
→ポスターをダウンロードできます。
岡田和一郎「分裂期中国における二つの〈戦争〉」
南北朝時代、華北に建国した北朝諸国家は北にモンゴル高原の遊牧勢力、南には江南の南朝が存在した。プラトンの戦争の定義によれば、北朝にとってこれら2つの外部勢力との戦いは、内戦ではなくともに戦争となるはずである。しかしながら、両勢力との戦い方やその境界域に対する政策は、南北で全く異なっていた。今報告では、北朝の南北勢力に対する戦いや南北の境界域政策を分析することで、北朝ひいては分裂期中国における2つの〈戦争〉がもつ意味を考察していく。
田中希生「大陸浪人——近代日本の戦争機械」
誰もが知るとおり、近代日本は、武士身分を廃止し、国民皆兵の道を歩むことになった。
だが、この政治判断によって、ただちに歴史的な武士階級が失われたと考えるのは、浅薄な見方である。武士身分を失ったひとびとは、さまざまな形で、社会に浸透し、近代日本を牽引していくことになる。そのもっとも特徴的で不穏な存在が、いわゆる「大陸浪人」である。彼らは大陸に逃れ、大陸に維新をもたらすべく活動するが、それは同時に、アジアに戦争の機運を撒き散らすことでもあった。
◎日程:8月26日(土)14:30〜17:00
(開場14:00)
◎場所:奈良カレッジ交流テラス(奈良女子大学東側敷地内)
→アクセス方法(地図内③)
◎どなたでも参加できます。kiotanaka@fragment-group.comまでご一報ください。
◎報告・討論ののち懇親会があります。こちらもぜひご参加ください。
◎ロッカー等ありませんので、所持品は各自で管理ください。
PROGRAM
人文学の正午研究会第6回定例大会
シンポジウム 歴史と異端の神
→ポスターをダウンロードできます。
私たちが生きる現代。それは、歴史喪失の時代といえます。すなわち、幼い頃に、父や母から語られたような、苦難を乗り越えて生長する、あの懐かしい〈人間〉の不在。一方で、昨今では、宗教をめぐる諸問題が世間の紙面を踊りました。そして、このことは、いまだに超越的な〈神〉の存在が私たちを惹きつけながら、しかし私たちの心や社会に不協和音を奏でることを示唆します。したがって本シンポジウムでは、私たちにとって、歴史とは、そして神とは何か。あるいは、歴史と神がいかに交錯するのか。こうした根源的な問いにたいして、3つの異なる角度から、やわらかで多彩な光を投げかけます。
藤根郁巳「〈不浄〉をめぐる神々の相剋——時衆国阿上人伝の変奏をとおして——」
〈不浄〉、すなわち穢れとは何か。それは我々が、大地に存在することを証明するものである。しかし同時にほの暗く、忌まわしささえ感じさせる、生の痕跡である。そして不浄は、中近世を生きる人間にとって、我々以上に痛切なものであった。それゆえに、不浄をめぐって神々は人間に語り、あるいは人間を前に蠢き、葛藤する歴史がうかがえるのである。本報告ではそうした神々と人間の生動を、時衆の高僧国阿上人に焦点をあてて、照らしだす試みである。
津田哲志「ランケと歴史と神と」
歴史家ランケと歴史、そして神、この三者はどう関係しているのだろうか。確かにランケは歴史家である以前に熱心なプロテスタントであった。しかし、このことは単に歴史学と個人の信仰という問題なのではない。三者の関係は見かけ以上に密接であり、この関係を通じて別様の「神」が明らかとなる。そこからランケの目指す「歴史」を考える一つの道が開ける。
「歴史」と向き合うための試論。
田中希生「折口信夫、あるいは歴史における異端の神々との対話について」
神は死んだ。ニーチェのこの言葉にかかわらず、彼は神がいるかいないかはどうでもいい、とも言っていました。プロテスタントの牧師を父にもった彼はもとより、歴史哲学者のジャンバッティスタ・ヴィーコにせよ、歴史家のシャルル・ペギーにせよ、彼らは異端の、あるいは異教の神と語らうことで、みずからの精神と語らい、それと同時に歴史を論じたのです。それは日本の民俗学者折口信夫も同じでした。彼らのおこなった異端の神との語らいのなかから、戦後社会が失ったものをふたたび現代に受肉させること、それが本報告の狙いです。
◎日程:7月30日(日)14:00〜17:00
(開場13:30)
◎場所:奈良カレッジ交流テラス(奈良女子大学東側敷地内)
→アクセス方法(地図内③)
◎どなたでも参加できます。kiotanaka@fragment-group.comまでご一報ください。
◎報告・討論ののち懇親会があります。こちらもぜひご参加ください。
◎ロッカー等ありませんので、所持品は各自で管理ください。
PROGRAM
人文学の正午研究会第18回定例大会
報告者:呉文慧(神戸大学)
「ASDのある児童・生徒と
教育的コミュニケーションを成立させる教師の実践知
——現象学的探求を通じて」
◎日程:8月29日(月)16:20〜17:50
◎場所:奈良女子大学S棟3階327教室
◎アクセス方法
◎どなたでも参加できます。kiotanaka@fragment-group.comまでご一報ください。
◎報告・討論ののち懇親会があります。こちらもぜひご参加ください。
PROGRAM
福西広和写真展
「歴史と写真 Ⅰ」
◎日程:8月27日(土)12:00〜18:00
◎場所:奈良女子大学N棟1階101教室
◎トークイベント:福西広和/田中希生(歴史家) 16:00〜17:00 ◎アクセス方法
◎どなたでもご自由にご来訪ください。
◎ロッカー等ありませんので、所持品は各自で管理ください。
◎ポスターをダウンロードできます。
PROGRAM
人文学の正午研究会第5回大会
田中希生『存在の歴史学』刊行記念書評会
評者:上田 健介(近畿大学)
中村 徳仁(京都大学)
平野明香里(奈良女子大学)
渡 勇輝(佛教大学)
司会:川瀬 理央(奈良女子大学)
日時:2022年1月23日(日曜日)13:30~17:00
場所:奈良女子大学・文学部S棟2階 228講義室
[アクセス方法]……外部サイト(奈良女子大学)
◎ 著者参加。
◎ どなたでもご自由にご参加ください。途中参加・途中退出もOKです。
◎ Zoom同時開催。
◎ 学外(奈良女子大学以外)からの参加には事前登録が必要になります。下記ポスター記載のQRコードよりお申し込みください。
◎ 詳細をお尋ねの際は、お気軽に事務局shogo@fragment-group.com宛にメールをお送りください。
ARCHIVES
研究会記録
純文学と歴史 —非現在の夢—
--要旨執筆中--
歴史と文学 —叙事詩の可能性—
--要旨執筆中--
渡辺恭彦 廣松渉の思想—内在のダイナミズム—
--要旨執筆中--
田中希生 旅と都市—その喪失と国民国家—
20世紀末以来、ネーション=ステートは「想像の共同体」と呼ばれるようになった。だが、ほんとうにそうか。報告者は、その観点から、前近代と近代における旅および歌の概念に注目した。革命的歴史の舞台は、道の空間と歌の時間という、特異な時間においてなりたっており、そうした時空を読み解くことなしには、すべての歴史は、国家の歴史に回収されてしまう。そこでは、革命に寄与するものも、しないものも、すべてが国家に捕らえられてしまう。想像の共同体という用語もまた、一種のブラックホールとして、あらゆる革命的なものを飲み込んでしまった。というよりもむしろ、既存の国家共同体の強化に貢献したのである。旅や都市という革命的概念は失われ、観光と唯一の首都(国家)とだけが残った。こうした世界のなかで、われわれにできることはなんだろうか。
教養とはなにか?
--要旨執筆中--
山下航佑 岡本太郎論
--要旨執筆中--
佐藤太久磨
「近代」省察のための方法論的試論
--要旨執筆中--
田中希生
技術と学問―人文学者がみた湯川記念館所蔵史料―
戦後、学問の過度の専門化や分化(いわゆる「タコツボ」化)を非難すべくおこなわれた、「総合」の試みに対して、ひとり湯川秀樹は、ますます専門化していくべきこと、分化は総合に相反しないことを説いていた。専門領域に閉じこもろうとするかにみえる湯川の学問的姿勢の一方で、世界連邦に対して誰よりも実践的な姿勢を貫いていたことはよく知られた、しかしあわせて考えられることの少なかった不思議な事実である。このことを、今日の技術と学問との関係に照らし合わせたとき、いったいなにがみえてくるか。報告者は、ますます「技術」化し、「臨床」化していく今日の学問的惨状を指摘しつつ、それに対する唯一可能な批判として、湯川の態度をきわめてアクチュアルな哲学として浮かび上がらせようとする。オルテガやハイデガー、スティグレールといった哲学者の議論を批判的に参照しつつ、技術に対抗する哲学の必要を訴える報告である。
小林敦子 草野心平の生成変化
文学者が対象を描くとき、その態度は当然科学者とは異なる。科学者が対象への没入を避け、あくまで対象に対する距離を「客観性」という用語で測ろうとするのに対して、作家はむしろますます対象に接近し、「なる」ところまでいく。こうしたドゥルーズの見解を、彼よりも先に実践し、哲学者に最良の事例のひとつを提供していたのが、草野心平であると、報告者はいう。「なる」という用語は、たしかに哲学的な態度決定をひとに要求する。というのは、自己同一的な存在の概念を根底から覆しているからである。今後の展開が期待される報告だった。
梅田径
文学研究における「物」と「事」
平安後期に活躍した藤原清輔の『奥義抄』のさまざまな伝本の差異を解き明かしながら、作者と読者とのあいだに介在する書写者の存在を浮かび上がらせようとする意欲的な報告。文学的な解釈の対象として存在する古典的テクストがもっている歴史性は、物としての書物にあるという。報告者のオリジナリティは、そうした物性を、紙や文字ではなく、書写者の存在に求めようとした点にある。「物」と「事」をめぐって、あるいは実作をめぐって、きわめて活発な討論が交わされることになった。
山下航佑 岡本太郎の芸術論―自然史、創造とコミュニケーション―
報告者は、自然との絶対的な引裂のなかで人間を捉えるバタイユの見方に即した従来の岡本太郎論をこえて、引き裂かれた場所でなぜ「笑い」が可能なのかを問うていく。決断と自然、瞬間と歴史、主観性と客観性の境界に対極主義としての岡本の芸術の場を認め、この場を、報告者はマルクスの用語をかりて「自然史」と呼んだ。討論は報告者のこの概念の妥当性に集中し、因果律をどのように捉えるか、自由や必然は哲学的にどのように可能なのかが問われ、きわめて活発なものとなった。
小路田泰直 歴史とは何か/人はなぜ歴史を書くか
歴史とは何か。人の本質が絶対的他者依存性にあるとするなら、社会はアプリオリなものとして、つねに存在していたことになる。この依存を最大限に成り立たせようとするなら、ひとりの王がいればよい。そこで生じるのが、歴史である。ただし、ここで生じる歴史は、実際の歴史を逆転させたもの、すなわち神話である。さらにこの王の偶然性を必然に変えるために記紀編纂がなされ、やがて王の衰退は民衆の総意としての道理の覚醒につながる。それが歴史であるとした。
田中希生 歴史とは何か? 人間・革命・歴史学
歴史とは何かという大きな問いに対して、報告者は、地中海に伝わる神話(とりわけイシスとオシリスの神話)や、ホメロスのような文学作品、あるいはヘロドトスやトゥキュディデス、司馬遷といった初期の歴史家の文章を引用しながら、歴史そのものがひとつの事件であり、《人間》が登場したときにだけ、歴史が生まれると指摘。また、人間は、王や貴族、武士や農民といった貴賤を超越する概念として登場するのであり、したがって、歴史の概念が重要なものとなるのは、革命をともなう場合だけであると主張した。
古川雄嗣 苦しみの意味と偶然性
偶然性の哲学として位置づけられてきた九鬼周造の哲学のなかに、必然性についての透徹した視座をみようとする報告。とくに彼の博士論文をめぐってかわされた田辺元との手紙のやりとりのなかから、偶然性から必然性にいたるダイナミズムを認めて、苦しみに意味を見いだすことでそれを克服していく可能性をみようとする。討論では、自己と他者にまつわる苦しみの意味が変化していく点が指摘されつつ、必然性の概念では越えることのできない高次の偶然性に焦点が移り、人文学にとっての今後の課題に照明が当てられるものとなった。
小路田泰直
思惟の歴史としての日本史試論
日本の古代から近代にいたる知そのもののあり方を、世界史的・自然史的な視野から考察する野心的な報告。多様なものの集積から同じものの多様な現れへ、ひとことでいえば網羅から抽象へと変化していく決定的な契機を法然や親鸞、日蓮など鎌倉仏教の内奥に見いだすとともに、プラトンの国家思想にあらわれた輪廻転生とルソーの契約論の差異を比較しつつ、網羅の不可能性として生まれた近代の社会論の困難を論じる。とくに人間の他者依存および分業と、網羅との関係をめぐって精力的な討論がかわされ、今後の展開が期待されるものとなった。
古山俊介 欧州文化政策と欧州電子図書館Europeana
ヨーロッパにおいて超国家規模で展開されるアーカイヴズの思想を、痕跡(ジャック・デリダ)の概念などを駆使した現代思想をふまえつつも、とくに現象面から迫ろうとする、意欲的な報告。報告では、近年の電子図書館の成立から、最新のEuropeanaに至る歴史がグラフィカルに示され、ヨーロッパの取り組みの先進性・ラディカルさが鮮烈に明らかにされている。討論では、そのことと、今日のヨーロッパの閉塞とは不可分ではないのか、といった点に注目が集まり、旺盛な議論が展開された。
渡辺恭彦 廣松渉のマルクス主義論―物象化の地平―
戦後最大の思想家のひとり、廣松渉の哲学を歴史的背景とともに丹念に追い、国家への抵抗と国家の理論とを相即的に組み立てる彼の思想の可能性と限界とを浮きぼりにしていく真率な報告。疎外論批判から物象化論への発展のなかで、廣松の理論的格闘と時代の閉塞とがシンクロしていく。廣松の苦悩は、まさに現代史的な苦悩であり、歴史内存在として人間を捉えた彼の理論はそこにおいて実証されているといえる。報告者は物象化論に可能性を見ていた。報告者ならではの畸形的な物象化論が描かれんことを、切に願う。
田中希生 歴史における超越の意味を問う
情報の概念が浸透し、世界から高さや深さが失われ、ますますフラットになっていくようにみえる一方で、潜在的には災害や革命を招来する超越的なものが欲望される状況が生まれている。近代が超越的なものを拒絶して誕生したとして、ならばその超越や彼岸はどこへ逃れたのか。それらの帰還はありえないのか。それを世紀をまたいで考察する研究報告。討論では、報告者の危機意識を共有させるところまではいかなかったものの、歴史のもたらす深さや高さの概念に再度注目を促すことはできたといえるかもしれない。
坂 堅太
安部公房と帝国の記憶―「変形の記録」における転換の意味をめぐって―
作家・安部公房が向き合った、第二次世界大戦期の日本の帝国主義と戦後の共産主義の勃興について、短編小説「変形の記録」を素材に論じた研究報告。大陸に残され、コレラに罹患し射殺された兵士が幽体離脱して自分を射殺した将校たちの操るトラックに乗り込むという奇妙な物語のなかに、報告者は帝国主義戦争や共産党と向き合う安部のしたたかな戦略を読み取ろうとする。とりわけ、砂漠の概念をめぐって刺激的な討論が繰り広げられ、作家の執着が浮き彫りになるものとなった。
山本昭宏
一九六〇年代前半における被爆者の表象―大江健三郎の小説とルポルタージュの比較を通して―
核言説をめぐる作家・大江健三郎の仕事の価値を二一世紀に改めて提示した研究報告。六〇年安保後、小説では『個人的な体験』、ルポルタージュでは『ヒロシマ・ノート』によって典型的に示される大江の核言説に対し、報告者の独創的な視点から《恥ずかしさ》がテーマの中心に据えられ、旧来の大江像を超える大胆な大江像が説得的に示された。その後の討議の深まりからも、政治・文学のみならず、もっとミクロな生の視点から、多くの可能性が大江文学に認められるように思われ、こちらも今後の展開が期待される。
山下航佑
ベンヤミンの言語論と歴史―歴史は他のものでありえるのか―
ベンヤミンの言語論をめぐる研究報告である。記号論やシミュラークルに依拠した近年の言語観を批判的対象として取り上げつつ、潜在的な力として熱をもっているような、固有名、翻訳、アウラ、神話的暴力と神的暴力といったさまざまな概念の星座の配置図のなかから、ゲーテの『親和力』が浮かび上がるという非常に刺激的な構成の報告。とくに決断行為としての言語について、奥の深いテーマが討議された。また、言語をどのような観点から考察すべきかについて、実践的な討議が行なわれ、今後の展開が期待されるものとなった。
小林敦子 色彩を言語で描くとは―文学的色彩論―
われわれが普段身近に感じている色とは何かをめぐる報告。ニュートンの実体論からハイゼンベルクの量子論、あるいはパウル・クレーの絵画に至るまで、歴史的に広範な議論のなかから、とりわけゲーテの『色彩論』におけるスピノザ的な側面を再評価しようとした報告と位置づけられる。また、色彩を言葉で描く行為の、実践的かつ具体的な事例が多数紹介され(例えば宮沢賢治や北原白秋、室生犀星や高見順、有島武郎や川端康成など)、言葉が色を放つ瞬間がいかにして現われるかが、報告者独自の芸術的な視座から提示された。
田中希生 人文学はいかに機能してきたか?
人文学のいくつかの公準、およびヘーゲルの歴史の弁証法、歴史の終焉をめぐる議論が紹介され、そのなかからとりわけ歴史の四つのモデルが提示された。一つ目はカントにおける超越論的(構造主義、理念としての歴史)歴史モデル、二つ目はヘーゲルに依拠した弁証法的歴史モデル、三つ目はマルクス主義の唯物論的歴史モデル、そして四つ目は実証主義的歴史モデルである。これらはいずれもものと認識のあいだに二重化されたリプレゼンテーションという思考法を明示的に、あるいは暗示的に前提していることが指摘された。